(六三年、「新刊ニュース」初出。『小松左京ショートショート全集1 ホクサイの世界』角川春樹事務所版を参照)

ホクサイの世界―小松左京ショートショート全集〈1〉 (ハルキ文庫)

ホクサイの世界―小松左京ショートショート全集〈1〉 (ハルキ文庫)

  • 作者: 小松 左京
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 2003/02
  • メディア: 文庫

(※このエッセイは「ホクサイの世界」のオチまで完全にネタバレしています。ご注意ください)

 ほんの数ページほどのショート・ショートである。僕は今回「静岡SF大全」のために読み返して、この作品を読むのは三度目ぐらいだと途中で気がついたものの、改めて読み返して戦慄した。時機に合いすぎている、と思ったのだ。
 3.11、すなわち東日本大震災の後、日本SFの再読が盛んになった。一度読んだ作品であっても、そこに新たな側面を発見することが多かった。例えば、日本SFではないが、日本においてオールタイム・ベストの一位に選ばれる作品の『夏への扉』を再読する機会があった。以前は、猫のピートや、SF的仕掛けやラブロマンスばかりに意識が行っていたが、再読すると作品の背景にある放射能汚染された世界や、主人公が家族を核兵器で失い、戦争で核弾頭を詰め込む作業から復員してきたばかりであるという、背後の暗い部分を強く意識するようになっていた。この暗い背景があるからこそ技術を巡る主人公の葛藤やハッピーエンドがより意味があるものであることが、初読よりも強く理解できたのだ。
作品自体は、何も変化していない。変化したのは我々である。受容理論を持ち出すまでもなく、読者が如何に読むかによって作品というのは成立する。並んでいる字だけで作品は完成されているのではなく、大勢が、違う場所・時代・感性で読むその瞬間瞬間に作品はその都度生成される。……そのようなことを「頭で」知っているのと、体験するのとは大きく違う。震災後、僕は小松左京作品などを再読して、それを「体験」することになった。
 震災の直後、書店から『日本沈没』がなくなったと耳にした。どうも、やはりこの事態を『日本沈没』になぞらえ、フィクションから何某かを手に入れようとする方々が多かったのであろう。八〇年代以降、高度消費的なリアリティや、ネット的なリアリティがSF作品では猛威を振るったが、それ以前の、第二次産業的な手触りのある小松作品が再読されうるメンタリティに読み手の変化を促した、ということなのかもしれない。8月に刊行予定の『SFと311』(仮題 作品社)における座談会や論考でも、小松の名前は何度も召還された。そしてその名前を呼び出してしまうことの意義、小松左京作品の射程などなどは、個々の論者が鋭い意識で議論されているので、是非その精緻な議論を参照していただきたい。
 そしてこの「ホクサイの世界」。静岡SFだと言われて読んだのだけれど、静岡が関係しているのは「富士山」ぐらいであろうか。直接静岡そのものがSF的な内容に食い込み、有機的な連関をしているかと言えば、そうではないだろう。未来社会の夫婦がホクサイの絵を見て、実際にその時代にタイムマシンで遊びに行くこの作品では、タイムマシンの出現ポイントは隅田川の近くとなっている。なので、「SFにとって静岡とは何か、静岡にとってSFとは何か」という本質を抉ることができるような作品ではない、という点を、静岡の方々にお詫びしておきたい。
 さて、免許を取りたてで時間を数世紀間違えてしまうような妻の運転で、19世紀のエド時代に行く(妻はエドワード王朝と間違えている)。するとそこに広がっていたのは、ホクサイの絵そのままの世界だった。「今の今までホクサイやヒロシゲの絵は、画家の自由な抽象による、理想化されたものにすぎないと僕は思っていた。彼等が実は写実派だったという事実を、現にこの眼で確かめながら、なお夢見る心地だった」という箇所は、リアリズム論として奇妙な捩れを感じて非常に面白い箇所である。
 そして太古の趣のある自然の中を抜けて、ほんの十軒ばかり並んでいる草葺の民家に近づき、小船に乗った「三角型の笠をかぶった半裸の男」に話しかける。男はシラウオをとっていると言う。主人公は宿屋はないかと聞く。そうすると、男は先ほどの村を指して「よそもンはとめたがらねえで……」と言う。

「ここは何という所ですの?」妻はまばらな民家を見ながら言った。
「エドでがす(中略)あれがエド村で、ここはスミダ川ちうだ(中略)むかしやァあれでもトウキョウちうて、世界第二の都会だったがの。今じゃ、やけてぶっこわれて、赤土の下になってるだ」

 ――要するに、二世紀未来、すなわち二一世紀に行ってしまったのだ。六三年に発表されたこの作品において、既に東京なり日本なりを「廃墟」に戻してしまいたいという衝動は噴出している。『日本アパッチ族』(64年)が廃墟から立ち上がる、高度成長の原動力のような心性を描いていたとしたら、本作は『日本沈没』(73年)へと繋がる「廃墟に戻したい」衝動の作品である。63~64年時点で小松にはこのダイナミズムが既に孕まれていたということに驚きを禁じえない。
 SFセミナー2011の合宿企画「『日本沈没』再読」で、SF評論家でありつつ最近は学校小説論の旗手として頭角を現してきている海老原豊は、『日本沈没』の中に既に東海村から放射性物質が流れ出している描写があるのを指摘したが、それもまた震災が我々に及ぼした「受容」の変化によって発見されたものである。小松作品は、多くの作品で、主題ではない箇所においても、放射能や核の問題が見え隠れしている場合が多い。
 本作もまた、そのような核時代における破滅の予感を漲らせた「最終戦争後のビジョン」を見せる。福島第一原発が放射性物質を海に垂れ流し、放射能の影響から畸形的な生物が生まれてくるかもしれないという漠然とした不安がいだかれている“いま”の状況の中では、この結論部には、一年前、二年前、五年前、あるいは十年前に読まれたときとは違う戦慄があるのではないだろうか。

「お客さア、あんたらこれ食べなさらんかね」男ははじめて顔をあげて、ニヤリとわらった。ぬるぬる光るものを、手でつかんでつきつけながら男はいった。「ここのシラウオはの、ミツマタシラウオちうて、おっそろしい光が降ったちう昔から頭が三つあるだ。――うまいだよ」(藤田 直哉)