(玲風書房 2003年1月発行)

「七不思議」という言葉には、何かしら人の心をくすぐる響きがある。たとえば、ぼくが子供の時分には、巷で怪談が流行していて、「学校の七不思議」をテーマに取り上げたホラーが大いにもてはやされたものだった。ブームに特有の熱気という理由を差し引いても、理科室の人体標本がひとりでに動くとか、音楽室のベート―ベンの肖像が夜な夜な絵から抜け出してピアノを演奏するとか、そういった怪奇なエピソードには、子供たちを虜にするだけの魅力があることは否みがたい。なぜなら、七不思議の怪談は、何の変哲も面白みもない学校の風景の裏側に、もしかすると、恐ろしくも心躍らされるような秘密が隠れているかもしれないというほのかな期待を抱かせてくれるからだ。その意味で、学校の七不思議とは、殺風景でつまらない日常にスリリングな空想の息吹を吹き込むための、子供たちなりの暮らしの知恵だと言える。

だから、怪談話に限らず、七不思議の物語では、自分の足を伸ばして確かめに行けるくらい身近な場所に、現実を超えた不思議が存在していることを、説得力たっぷりに説いて聞かせるという点が肝心なのだ。紀元前二世紀、シドンのアンティパトロスやビザンティンのフィロンが、歴史上はじめて「世界の七不思議」をリストアップしたさいにも、彼らはあくまで、自分が生きているヘレニズム世界の地誌学を編んでいるつもりだった。七不思議の著者たちは、今日ときどき誤解されているみたいに、荒唐無稽なおとぎ話をでっちあげようとしたわけでも、失われた超古代文明のオーパーツについて証言しようとしたわけでもなかった。逆説めいた言い回しではあるけれども、日常を超越した「不思議」は、日常の延長線上に存在しているのでなければ、もう不思議としての魅力を失ってしまう。

この七不思議というトピックがはるばる日本にまで伝わったせいなのか、それとも、古今東西の別を問わず人間の考えることには一定のパターンがあるせいなのか、それはいずれとも定めがたいけれど、静岡でも昔から「七不思議」の物語が語り継がれてきた。それがこの『遠州七不思議』だ。本書に採録されているエピソードは、(1)「三度栗」、(2)「小夜の中山夜泣き石」、(3)「浪の音」、(4)「無間の鐘」、(5)「片葉の葦」、(6)「桜ヶ池のお櫃納め」、(7)「京丸ぼたん」の七篇である。ネットで検索をかければ、個々の話の輪郭はおおよそつかめるので、興味のある方はぜひ確かめていただきたい。

だが、この『遠州七不思議』を本当に楽しむためには、それが、静岡の人々が現に生きている土地で起きた事件なのだという感覚を忘れずにいる必要がある。たとえば、弘法大師の功徳で年に三度実を結ぶようになったという「三度栗」は、静岡に限った伝承ではなく、類似の民話は、四国なり新潟なり、日本各地で語り伝えられている。その意味では、もし物語のパターンにしか注目しないなら、静岡の「三度栗」は、せいぜい同系統の伝承の一派生に過ぎないという、いささか味気ない考え方しか生まれて来ないだろう。けれど、そんな考え方をしているようでは、物語の興趣が台無しになってしまう。遠州七不思議の「三度栗」は、それが、今現在は静岡県の菊川市と呼ばれている場所で、かつて実際にあった出来事なのだと受け容れることで、はじめて本当に味わい深いものとなるのだ。たとえるなら、「トイレの花子さん」の怪談は、日本全国に広まって陳腐化してしまっているが、それでも、自分の通う学校に花子さんがいるかもしれないということになると、とたんに或る種のリアリティを帯びて迫ってくるようになるのと同じである。

『遠州七不思議』に採録されている物語は、どれも、かつてのこの土地に生きていた人たちの暮らしに根ざしながら、形成されたものだ。怨敵を指してつねに一方向を向くという「片葉の葦」の伝承は、遠州地方に群生する葦が、からっ風に吹かれるせいで片方にしか葉をつけないという現象に由来するのだと言う。弥勒菩薩にまみえるため、不死の蛇と化して桜ヶ池に身を沈めたという皇円阿闍梨の伝承は、池に赤飯をつめた櫃を沈めて阿闍梨を慰撫するという彼岸の祭りの中に、今なお息づいている。

今も昔も七不思議の伝承が愛される理由は変わらない。それは、自分たちが今いる世界を、ほんのちょっぴり別の角度から、新しい方法で眺めるためのさりげない提案なのだ。「京丸ぼたん」は、旅人と村の長者の娘とが恋仲になって里を出奔するが、暮らしが立ち行かずに故郷へと戻ってきて、一礼するとそのままふたりで川に身を投げたという物語である。それから毎年、夫婦の命日になると、里には大きな白いぼたんが咲くようになったと伝承は語り伝えている。じっさいに、男女の恋愛をめぐって昔そういう悲惨な出来事があったのかもしれない。あるいは、恋愛事に関わりなくとも、よそものに対して苦い記憶があったのかもしれない。「白いぼたんが咲くようになった」という伝承が何を意味しているのかも定かではない。しかし、ひとつ言えることは、伝承は、かけおちした夫婦の死ではなく、「白いぼたん」を物語の結末に配することで、夫婦の死に何かしらの余韻を含ませているという点だ。それは、現世では悲劇に終わった夫婦だけれど彼岸で仲睦まじく暮らしていて欲しい、という願いの気持ちの反映かもしれないし、あるいは、悲劇的な経緯に対して、何も死ななくても、という後悔の気持ちをあらわしているのかもしれない。だが、いずれにせよ、七不思議の物語は、自分たちが今いる現実に対して、別様の世界の可能性をそっとほのめかしているからこそ、長く愛され語り継がれてきたのだろう。

『遠州七不思議』は、これと同じ種類の余韻を、現代に生きるぼくたちにもひとしく味わわせてくれる。なぜなら、これらの伝承は、それ自体が、すでにうつろい失われた過去の世界の証言、ぼくたちが生きているのとは別の世界の証言に他ならないからだ。ゆえに、サイエンス・フィクションの醍醐味が、今われわれが存在する世界について新しい眺めを提供する点にあるとすれば、過去の遺物に哀惜の目を向ける行為もまた、すぐれてSF的であると言わなければならない。ドンブラコンLに参加される諸兄も、もし時間が許せば、ぜひこの『遠州七不思議』を片手に、静岡の旧跡を見て回って欲しい。

(横道仁志)