初出〈花とゆめ〉1984年8号 → 短編集『甲子園の空に笑え!』(花とゆめCOMICS 1985・1・25)に収録 → 短編集『空の食欲魔人』(白泉社文庫 1994・9・21)に収録 http://www.u-office.co.jp/~irana/sakuhin/3gatu/hyoshi.jpg

もう4月なのに、どうして「3月革命」?……いぶかしむ声が聞こえてきそうであるが、私・宮野は、もちろん、この作品のことを4月になってから思い出したわけではない。

「静岡SF」と聞いたとたんに、この作品の「熱海に行きたいわ あたし」というヒロインのセリフが頭に浮かんだし、「クの日」に扱おうとして、3月にも読み返した。しかし、内気で気弱な宮野にはこれをSFと主張する勇気がなかった。

そして4月になり、桜の花が咲き始めた。

そうしたら、どうしても書きたくなってしまった。

桜の花は、どうしてこんなにも死と永遠を想起させるのだろう?

見上げる者の魂をはるかな高みに飛ばし、人生を彼岸から見下ろすような視点を一瞬獲得させる。こんな花は他にはない。

「早紀子ちゃん うめら」

「ちがう」

「…ももら」

「ちがうっつってんだろ! ありゃおめー桜だ」

咲いたとたんに散ることを予感させるような花。それは、我々もまた限りある存在であることを、意識下において感得させるのかもしれない。

2歳違いの姉と弟。

弟は知っている それが桜であることを。

だからこそ 何度も問う。

そんなことを いったい何度くりかえしたのか。

日本に「9月始業」が根付かないのは、桜の花があるからだ……。そんな説を耳にしたことがある。そうかもしれない。桜が咲くのは、進級・進学・人事異動の時季である。「価値の転換に意味をもたらし選択を必然づけようとする一瞬のあの酩酊」には、桜の花が必要なのだ。

「あ 早紀子ちゃん うめらー」

「…浩生」

「あ ちがった ももらー」

「…おめーなー わざとゆってんじゃねーか?」

もちろん、わざとである。

桜が咲くと、浩生は早紀子に語りかけずにはいられない。

ボクハ アノヒノコトヲ オボエテイル…

そう言う代わりに浩生は「桃だ」「梅だ」と桜を指して言うのだ。

そして、その桜の木の下で日常が反転する。

「この桜の木だった

ここに僕は立っていた

早紀子ちゃんが向こうからやってきた」

自らのビジョンを「…無論 目の錯覚」とした早紀子は浩生の発言を笑い飛ばす

浩生は去り 7年間帰って来ない。

「適齢期」となった早紀子は婚約する。

さて 新婚旅行の行先は?

「ヨーロッパとアメリカ どっちがいい?」

「熱海に行きたいわ あたし」

ヨーロッパやアメリカは 日常と地続きの土地である

「熱海」こそが、日常を反転させる土地の名だ。

配偶者を選ぶのは生物一生の大事である。

ホモ・サピエンスの♀においても、それは同じ。

その判断は、彼岸からやってくる。

40億年の歴史の蓄積が判断させると言い換えてもいい。

桜の木の下に立つ浩生を見て、早紀子が得たビジョンはそういうことだ。

一瞬に全部の時間を見てしまう。あるいは、永遠を。

そうなったら……、もう選択の余地はない。

だから「3月革命」は次の言葉をもって閉じられる。

「桜よ 桜 花吹雪

……そして 熱海に行くのよ あたしたち」

さて、読んだことのない人には全く内容のわからない書き方になってしまったけれども、そもそも作品の「ストーリー」を紹介することには、本来、何の意味もない。この作品の場合は特に。

宮野にとって、この作品はSFである。

どこがどうSFなのか言語化できなくて苦しんでいたら、翻訳家の増田まもる先生が次のようなメッセージを下さった。

「大多数の少女漫画と川原泉の漫画のちがいを指摘するとすれば、作品の底の抜け方にあるのではないかと考えています。上方落語にもみられるような、非日常へすぽんと抜け落ちていく感覚に近いように思います。また、日常の底を抜く力こそ、SFの本質ではないかと考えていますので、彼女の作品は立派なSFだと思います。」

これ以上の言葉を用意することは、宮野にはできそうにない。

そう言えば、増田まもる先生の翻訳された『千年紀の民』(J・G・バラード)は、「ささやかな革命が起こっていた」という言葉でもって始められていた。

(宮野由梨香)