竹取物語考――「ものをかたることの出で来はじめ」

1. 《物語の出で来はじめの祖》なる竹取物語

或る三月のうららかな春の日のこと、宮中は一斉に色めき立っていました。今をときめくふたりの姫君、すなわち、源氏の君が擁立する梅壷の女御と権中納言が擁立する弘徽殿の女御とが、帝のご寵愛をめぐって勝負をすることになったからです。その勝負の内容は、帝が絵をたいへんお愛であそばされるのにちなみ、物語を描いた絵巻を互いに持ち寄って、どちらの見せる作品がよりすぐれた芸術であるかを女官たちに品評させるというものでした。そこで梅壷の女御が提出したのが《物語の出で来はじめの祖》、つまり日本で最初の物語と呼ばれる『竹取物語』の絵巻だったのです。

梅壷の女御を応援する女官たちは『竹取物語』の価値を弁護してこう言います。「なるほど『竹取物語』は、話中の竹取の翁よろしく、古くさくつまらなく感じられるお話かもしれません。でも、かぐや姫がこの世界の穢れに染まることなく矜持を保って天へとのぼる姿は、神代の出来事にも似て、浅薄な人間にはちょっとわからぬ崇高性が感じられるのです」。弘徽殿の女御の側に立つ女官たちは、これに反論してこう言います。「かぐや姫がのぼったという天の世界がもはや人間の想像の及ばぬ境地だというのなら、そんなものは物語になりようがないでしょう。そもそもかぐや姫を育てた竹取の翁はきっと身分の卑しいひとだから、貴族であるわれらとは無縁です。じっさい、かぐや姫は、もったいなくも帝のご寵愛を受けながらとうとう妃にならなかったではありませんか。おまけに『竹取物語』に登場する公達がとても無様に描かれているのはけしからぬことです」。

上に引いたのは、『源氏物語』の第17帖「絵合」の巻の中の一節です。このくだりは『竹取物語』の名前が言及される最古の記述であると同時に、現存する限りで歴史上はじめての『竹取物語』についてのまとまった論評と見ることができます。じっさい、梅壷の女御を応援する女官たちも、弘徽殿の女御の側に立つ女官たちも、作品を擁護するか誹謗するかでは立場が分かれるものの、両者の主張の内容自体はそれほどかけはなれてはいません。両者とも、かぐや姫をいささか傲慢な人物と見なす点で一致しています。そして、かぐや姫を傲慢と見なす評価の背後には、『竹取物語』の価値観が貴族社会のそれとおそらく相容れないだろうという判断がはたらいています。なぜなら、『竹取物語』とは竹取の翁という「下人」を中心にして展開する物語であるのみならず、貴人たちを――あまつさえ帝その人を――ないがしろにしていると受け取れる節すらあるからです。

じっさい、『源氏物語』から千年近く下った時代にあって、川端康成が『竹取物語』の解説を書くさいに苦慮したのもまさにこの点でした。なぜなら、彼が『竹取物語』の現代語訳を上梓した1937年は、日中戦争が開始した年でもあったからです。天皇制のイデオロギーを中心にして日本の価値観が一元化されていく大きな流れの真っただ中で、川端は、かぐや姫が帝に肘鉄を食わせる描写を不敬と見る向きを刺激しないよう、細心の注意を払いながら『竹取物語』の文学的価値を擁護しなければなりませんでした。にもかかわらず、そんな難しい時期に敢えて川端が『竹取物語』の訳業を遂行したのだとすれば、きっとそれだけの理由があったはずです。彼がリスクと引き換えにするだけの意義を『竹取物語』に認めていたのだと仮に想像したところで、これはあながち的外れな推測だとは言えないでしょう。

それでは、川端康成が『竹取物語』に見いだした意義とは何でしょうか。じつのところ、彼は『竹取物語』を「わが国小説の始祖」、つまり日本で最初の小説作品と見なしていたのでした。川端が『竹取物語』に対して送る賞賛の言葉はすべて、「小説としての善し悪し」という観点から下された判断に基づいています。少し長くなりますが、川端本人の言を見てみましょう。

竹取物語は、小説として、発端、事件、葛藤、結末の四つがちゃんとそろっている。そしてその結構にゆるみがないこと、描写がなかなか潑溂(はつらつ)としていて面白いこと、ユーモアもあり悲哀もあって、また勇壮なところもあり、結末の富士の煙が今も尚天に昇っているというところなど、一種象徴的な美しさと永遠さと悲哀があっていい。しかし何よりもいいのはやはりその文章である。簡潔で、要領を得ていて力強く、しかもその中に自然と色々の味が含まっているところ、われわれはどうしても現代文でその要領のよさを狙うことはできない。しかしその中にちゃんと調子(トーン)があって、強まるべきところは強まり、抑えられるべきところは抑えられてあって、この作者がなかなか芸術家であることが感じられる

つまり、川端康成も、そして紫式部も、『竹取物語』をひとつの芸術作品として――しかも、最初の芸術作品として――捉える点にかけて共通しているわけです。いまぼくは「芸術作品」と言いました。この場合の「芸術作品」とは、その物語が、何らかの伝説を語り継ぐことによって生み出されたのではなく、たとえ氏名不詳にせよ、単一の作者による独創を基にして創作されたのだということを意味します。だから、『竹取物語』は、さまざまな神話伝承を編纂することによって生まれた『記紀』とは峻別されるのです。

川端が賞賛する『竹取物語』の文章の美点とは、言うなれば、その作者が“自分は創作行為をおこなうのだ”と自覚できていたからこその結果に他なりません。そして、この自覚の背後には、『竹取物語』の作者が、神話の伝承というコンテクストから分断されていたという事態が存在します。すでに『源氏物語』の時点で、『竹取物語』は、いつ制作されたかもわからないほど古い物語だと語られていると同時に、その内容は「まるで神々の時代の事蹟のようである」と述べられています。ということは、紫式部でさえ、『竹取物語』の起源についてまったく知らなかったにもかかわらず、これを『記紀』で語られるような神話から区別しなければならないと理解していたことになります。もし『竹取物語』を神話の範疇に数え入れていたのなら、彼女はこれを指して「まるで神々の時代の事蹟のようだ」などという言い回しは用いなかったでしょうから。

この原稿でわたしたちは、『竹取物語』が《物語の出で来はじめの祖》と呼ばれる理由を、「神話と物語の違い」という観点からできるだけつまびらかにしようと考えています。そして、この試みは同時に、『竹取物語』の主題とはそもそも何であるのかという謎に一抹の光を投げかけるでしょう。

2. 言葉の起源をめぐる物語

みなさんにも思い出していただきたいのですが、『竹取物語』は、言葉の起源を解き明かす説話というスタイルを採っています。その一例として、世にもたぐいまれなる美貌とうわさされるかぐや姫のすがたを一目見ようと、野次馬たちがむらがった場面を挙げましょう。男たちは、夜も眠らず竹取の翁の屋敷の周りにやってきて、垣根に穴をあけてのぞきこんでは、あちらこちらをうろつくのでした。そして、このようにかぐや姫を求める男たちが夜中に徘徊することから「夜這い」という言葉が生まれたのだと『竹取物語』は説明しています。

「よばい」とは、もともとは「呼ばふ」の名詞形に由来する言葉です。たとえば、『古事記』では、八千矛神(やちほこのかみ)が沼河比売(ぬなかはひめ)の家に来て妻問いの歌を詠み呼びかけるときに、「よばひ」という言葉を用いています。ところが『竹取物語』は、言うなれば、神聖な求婚の儀式としての「よばひ」を、あさましい男たちの「夜這い」へとすり替えてしまうことで、パロディの笑いを生み出しているわけです。

神話の世界では、言葉の起源を解き明かす説話は、必ず特定の神の行為とその神にまつわる特定の地名とに結びつけられます。特定の地名は、その土地を嘉する神にちなんで命名されるものなので、他のどんな言葉とも交換できない特別な価値を秘めているのです。たとえば、『常陸国風土記』では、ヤマトタケルが新しい泉の水に袖をひたしたという事蹟にちなんで、常陸の国と名づけられたと説明されています。《その國俗(くにぶり)のことわざに、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の國》と『常陸国風土記』が語るとき、その背後には、神託によってその土地の呼ぶべき名があらわされた以上、土地の名とは神に呼びかけるための神の名でもあるという信仰が隠れています。風土記に言う「ことわざ」とは、神託の言葉であると同時に神を呼ぶ言葉なのであって、この発想は、やまとうたの枕詞へと引き継がれるでしょう。

このように言葉が呪能をもつと考えるいわゆる言霊信仰の発想と『竹取物語』のそれとを引き比べると、両者の違いは歴然と言わねばなりません。『竹取物語』においては、言葉の起源を説明するのは、神ではなく人間たちの事蹟なのですから。五人の皇子がかぐや姫の出す難題にほんろうされたあげく次々と失敗していく様子を指して、「恥(鉢)を捨てる」とか「あへ(阿部)なし」とかといった言葉が生まれたとする『竹取物語』の語り口には、『源氏物語』で女官たちが憤慨したように、貴族社会への揶揄が見え隠れします。しかし、さらにもう一歩踏み込んで考えるなら、『竹取物語』が徹頭徹尾まなざしを向けているのは、人間世界の何たるかなのです。かぐや姫に求婚する貴族たちが情けなく描かれるのは、貴族という社会身分が情けないのではなく、そもそも神ならぬ人間という存在が情けないからです。このことについてはまたあとで、あらためて考える機会があるでしょう。

神ではなく、あくまで人間に密着して言葉の起源を語ろうとする『竹取物語』の姿勢は、富士山の命名の由来を解き明かす結末の段に、端的にあらわれています。すなわち、当該のくだりでは、なぜ富士山がそう呼ばれるようになったかと言うと、山の頂上で「不死」の薬を燃やすさいに「あまたの士」が山をのぼったからだと語られているのです。ここで注目して欲しいのは、『竹取物語』の作者が、「富士の山」という地名をめぐって、「ふじ」という音の観点から「不死」という観念を想起させると同時に、「富士」という字形の観点から「あまた(富)の士」という観念を関連づけている点です。つまり、『竹取物語』の作者は、空想物語という表現を用いているとはいえ、音韻と字義という純粋に言語論的な地平から/純粋に言語論的な地平にとどまって「富士」という言葉を語ろうとしているのです。言い換えると、『竹取物語』は、言葉そのものについて鋭敏な感覚をもったひとの手になる物語だと見なす必要があります。

『竹取物語』が書かれたと推定されている平安朝初期は和歌が衰退して漢詩が興隆した時代だったという理由で、国文学者の小島憲之氏はこの時期を指して国風暗黒時代と形容しました。じっさい、『竹取物語』の作者も漢学の素養を備えた人物だったと考えられています。しかし、もう少し高い目線から考えるなら、この時代は、ただ和歌が漢詩に圧迫されていた時期というだけでなく、日本の文化それ自体が大陸の文化と混淆して、旧来の日本のアイデンティティが消失の危機を迎えた時代でさえあります。そして、消失の憂き目にあったものの中には、日本の古い神話の伝統も含まれているのです。そんな具合に、伝統的な文化と新しい異文化とが混淆を起こして、両者の境界があいまいになる危機の時期には、必ず「日本とは何か」という問いがひとびとの中で発生します。伝統とは、そうした問いかけの中で獲得された思惟に基づいてあらためて境界を画定され、再構成されながら存続していくものなのです。

『竹取物語』は、まさしく、再構成された新たなる国風の芸術として生み出されました。『竹取物語』の作者は、漢学に精通していた人物だった――ということは、この人物は、日本語という言語の世界の外側に出て、日本語の限界を見直すだけの展望をもつひとでした。じっさい、国文学者の泰斗・西郷信綱氏は、『竹取物語』の作者を指して、当時の漢学者たちはバイリンガルな世界に生きながら自国語を対象化して、その全体としてのあり方を意識せざるをえない立場にいたと述べています。仮に日本人が大陸の文化の影響をこうむることがなければ、日本語それ自体を考察するという発想はけして生まれはしなかったでしょう。したがって、『記紀』で語られるような日本神話の伝統がひとつの節目を迎えて、その代わりに『竹取物語』のような新しい形式の文学が誕生するという事態と、『竹取物語』の作者が言語に鋭敏な感性をもちながら、日本語それ自体を主題化するような物語を創作するという事態とは、じつは表裏一体をなしているのです。

ところで、このように『竹取物語』の作者は、或る意味でそれまでの日本の伝統を総括するという思想のもとに創作をおこなっているのですが、彼と相通じる思想をもつ偉大なSF作家をわたしたちはよく知っています。それは小松左京氏です。みなさんもよくご存知の通り、小松左京氏は、その長きにわたる作家活動を通していつも、わたしたちが生きるこの宇宙と未来との関係を、繰り返し問い直そうと試みました。わたしたち人間は、この宇宙のあり方について「なぜ」という問いを発さずにはいられません。「なぜわたしたちは存在するのか」、「なぜこの宇宙は存在するのか」、「なぜわたしたちは問わずにはいられないのか」……などなど。しかるに、わたしたちが「なぜ」という問いを発するとは、未だ見ぬ答えを既存の世界を超えた地点に求める行為に他なりません。つまり、「未来への問い」に他ならないのです。そして、わたしたちが未来に向かって一歩を踏み出すとは、これまでの世界の限界を線引きして、既存の秩序のすべてを――人類を、モラルを、社会を、文明を、歴史を――総体として思惟の対象にすることを意味します。この「未来への問い」を物語という表現を通して思索するというのが、小松左京氏の定義するサイエンス・フィクションです。そして、この意味で『竹取物語』は、日本で最初の物語であると同時に、日本で最初のSF小説でもあると言えるのです。

3. 《我をな視たまひそ》――『古事記』と『竹取物語』の穢れ観

しかし、『竹取物語』が“問い”の対象にするのは、ただ言葉の由来に尽きるというわけではありません。みなさんは、『竹取物語』がきわめてあざやかな手腕でもって、人間社会の縮図を表現していることにお気づきでしょうか。これは、『源氏物語』の中で女官たちが『竹取物語』を指して、身分の卑しいひとの生きる世界を描いた物語だと評していた点とも関係します。

いまさら言うまでもありませんが、『竹取物語』は、竹を取ることを生業にしている竹取の翁が、竹林で一本の不思議な光る竹を目撃して、その竹の中に小さな女の子を見つける場面からはじまります。女の子を見つけて以来、翁はたびたび竹の節の中に黄金が入っているのを発見するようになりました。そうして翁は富豪になって権勢をふるうようになります。女の子が成人して「かぐや姫」と名づけられたさいに催されたお祝いの儀では、身分の貴賎を問わず男なら誰も彼もが呼び集められて、大宴会が興じられました。しかしそのためにかぐや姫の評判が天下にひろまって、五人の貴人の求婚者があらわれ、やがて帝その人までもが姫に恋することになります。

つまり、『竹取物語』には、竹取りという卑しい身分である翁からはじまって、次にその翁が富豪となって、さらに続いて貴族たちがやって来て、最後に帝があらわれるというかたちで、社会の最下層から頂点に至るまで――シンボリックな表現方法で簡略化されているとはいえ――あらゆる身分の人間が順番に物語に登場するのです。これは、言い換えると、『竹取物語』の作者の“問い直し”の対象にされる定めからは、人間世界の最高存在たる天皇ですら逃れられていないということを意味します。その意味では、川端康成が対応に苦慮したあの『竹取物語』が天皇制を揶揄しているという非難の声に、まったく謂われがないというわけでもないと言えるでしょう。ただし、『竹取物語』論でよく話題に出るように、帝がかぐや姫に袖にされたかどうかが問題なのではありません。本当の問題は、『竹取物語』の中で、この地上世界の全体が「穢きところ」とされている点にあるのです。

平安朝の社会に生きたひとびとが「穢れ」をめぐる世界観によって諸般の行動を全面的に規制されていたことについては、あらためて説明の要もないでしょう。『竹取物語』とほぼ同時代に書かれた『延喜式』は、穢れの忌避について細かな規則を定めています。しかし、当然ながら、一定の規則体系として整備されるのに先駆けて、穢れという観念自体はひとびとの意識の中に存在していたはずです。なぜなら、穢れとは、時代を下るにつれて形骸化したイデオロギーと化していくものの、もともとは人間の自然な身体感覚から発生した観念だからです。わたしたちは『古事記』の中に、穢れの観念の原型をあらわしている挿話を求めることができるでしょう。その模範例が、有名なイザナギの黄泉国訪問譚です。

そのあらましについては、ここで語るまでもないでしょう。むしろわたしたちが目を向けたいのは、黄泉の国から帰還したさいにイザナギがこう語ることです。《吾はいなしこめしこめき穢き国に至りて在りけり。故、吾は御身の禊為む》。イザナギは、黄泉の国に足を踏み入れて身体が黄泉の穢れに触れてしまったから、その穢れを浄めるためにミソギをしなければならないと宣言します。しかし、問題なのは、いったいどうしてイザナギは黄泉の国に行っただけで穢れを身に帯びることになったのかという点です。イザナギが黄泉の国をおとずれたとき、イザナミはすでに「ヨモツヘグヒ」をしていたせいで生者の世界へ帰ることができませんでした。「ヨモツヘグヒ」とは、黄泉の国のカマドで煮炊きしたものを食することです。黄泉の国のかまの飯を食べると黄泉の国の人となってしまい、もはやこの世に戻ることはできなくなります。「ヨモツヘグヒ」とは、生者と死者とを分つひとつの境界線であって、イザナミはこの境界線を超え出てしまったから、死者たちに仲間入りしてしまったのでした。しかし、イザナギの方はどうでしょう。はたして「ヨモツヘグヒ」に類するような行為を何かしでかしていたのでしょうか。

自分を迎えにきたイザナギに対して、イザナミは、「わたしが生の世界に帰れるかどうかをこれから黄泉の神と相談して来るので、そのあいだわたしをけして見ないで下さい」と言い置き、黄泉の国の奥殿へとすがたを消します。しかし、待ちきれなくなったイザナギは、灯りをともして奥殿へと入り込み、そこで腐乱したイザナミのすがたを目撃することになります。これは、通説では「見るなのタブー」と呼ばれる物語定型と説明されます。すなわち、「見るな」と禁止されているにもかかわらず見てしまうことから破局が生まれるという、世界中でひろく観察される民話のモチーフだというわけです。ギリシャ神話の「パンドラの箱」、オルペウスの冥府下り、日本のおとぎ話の「鶴の恩返し」、「三枚のお札」などがその有名な例です。とはいえ、『古事記』の黄泉の国に関する記述を、その他の民話と同列の「見るなのタブー」の一例というだけで片付けてしまってはいけません。イザナギの黄泉国訪問では、単に定型であることを超えて、「見る」という行為が特別な意味をもつからです。

その片鱗は、すでに「黄泉」という名称それ自体にうかがえます。というのは、「ヨミ」とは、「ヤミ(闇)」が母音交替によって転化して生まれた言葉であって、つまりは視覚に由来する名称だからです。奥殿へと消えたイザナミを追いかけるときにイザナギがひとつ火をともして殿に入ったという記述からも、黄泉の国が闇に閉ざされた場所だというイメージが喚起されます。そしてまた、黄泉の国から帰還したさいにイザナギがミソギをして、最後に目を洗うことによってアマテラスが誕生する点も見逃せません。それはつまり、イザナギが黄泉の穢れをミソギで清める中で、とくに目を清めることが重要だったことを意味しているからです。だから、わたしたちはここでひとつの仮定を立ててみるとしましょう。すなわち、イザナギは、イザナミの死体を「見た」せいで穢れたのだと。

穢れは接触を介して伝染するという理解が一般的ですので、見るという行為が穢れを伝染するという解釈は奇妙に聞こえるかもしれません。この点についてみなさんに納得していただくためには、先に、『古事記』が語る黄泉の世界像が「モガリ」と呼ばれる古代の埋葬儀礼と結びついていることを説明する必要があります。じっさい、書紀一書に曰く、イザナギはその妹を見たいと欲して《モガリの処》へと至ったとされています。モガリとは、死者のなきがらを埋葬するまでのあいだ、一時的に安置しておくことです。生と死の判別が容易ではなく、また火葬が導入される以前の日本では、死者が腐敗して腐臭を発するようになるまでは、その肉体を保管して“早すぎる埋葬”の間違いをしでかすまいと用心していたわけです。このことを踏まえた上で、黄泉の国でのイザナミの記述を振り返るなら、《ウジタカレコロロキテ》という表現は、まさに死体が糜爛して、血膿がこぼれ、おびただしい数のウジ虫がうごめいている様子を形容していることに気づかされます。《コロロク》とは「むせび泣く」の意であって、ウジが死体を旺盛にむさぼるさまをコロコロと鳴く虫の声になぞらえているのです。

しかし、明らかに腐敗死体と確認されるより以前のなきがらについては、生死の判断が留保されていました。モガリの最中の死体は、厳密に言えば、生者の領域にも死者の領域にも属さず、一方から他方への移行状態にあると考えられていたのです。このことは、イザナミにもあてはまります。『古事記』によると、イザナミのなきがらは《出雲国と伯伎国の堺の比婆の山》に葬られたとあります。ここで言う「出雲国」とは、たとえば想像上の「西方」が極楽浄土と比定されるのと同じで、『古事記』の神話宇宙の中で“死の世界”の役割をになう場所です。つまりイザナミは、出雲国ではなく、出雲国の“境”に埋葬されたのだから、ただちに死者と認定されたのではありません。そして同じ意味で、黄泉の国は、じつは「死の世界」ではなく、正確には「生と死の中間領域」と理解されなければなりません。そうすれば、イザナギが黄泉の国におもむいた理由も納得がいくようになります。そもそも黄泉の国が死の世界であるのなら、イザナミを生の世界に連れ戻すことなどはじめから不可能だからです。そしてまた、以上の話から、イザナミが《我をな視たまひそ》と発言したわけも今や明らかです。というのは、イザナミは、イザナギに自分のすがたを見られない限り、死者と認定されることなく、少なくとも生死不明の状態でいられたのですから。

要するに、モガリにおいて死体を「見る」という行為は、生死未分のグレーゾーンに決着をつけ、生と死とのあいだにあらためて境界線を確定するという決定的な意義をもっていました。そして、「穢れ」とは、このように生死が決定不可能な状態のことを指す言葉だったのです。じっさい、平安期のひとびとの意識では、同じ死体であるとはいえ、白骨に触れたところで触穢とは見なされませんでした。あるいは、手とか足とかのようなごく一部しか残存しない死体もまた穢れを触発しないか、あるいは、穢れを触発するにしてもその程度として、完全な死体に比べて軽微であると判断されていました。つまり、誰が見ても完全に死に終えている死体はもはや穢れてはいないのであって、穢れとは、生と死とが混淆して宙吊りにされている状態に固有の観念なのです。

こうしてみると、まるで『古事記』の黄泉国訪問譚は、千年以上前に先取りされた「シュレーディンガーの猫」の感があると思われるかもしれません。しかし、穢れという現象が、それを認識する者との関係によって決定されるという発想こそ、平安朝のひとびとを支配する思考なのでした。その顕著な例は、触穢に対する忌みの作法に求められます。『延喜式』の定めるところ、穢れに触れた人間は、一定の日数だけ、参内なり神事なり公の行事への参加を忌み慎まなければなりません。なぜなら、穢れに触れた人間に接触した人間もまた、穢れに伝染すると見なされていたからです。しかし、忌み日の日数をいつから数えはじめるかというと、死の瞬間から測るというのが一般的だったようです。それはつまり、いつをもって死を死と認めるかという判断と穢れとが、切っても切り離せないことを意味します。でも、もっと面白いことがあります。それは、穢れものが存在すると知らずに穢れに触れていた場合、穢れものが発見されたときから忌みのはじまりを数えはじめるか、あるいはそもそも忌みの必要がないと考えられていたことです。たとえば『為房卿記』九月二十日のくだりでは、前日の夕方から内裏に犬の死体があったにもかかわらず、その発見は殿下がすでに内裏を出てからのことだったので、殿下は穢に触れたことにならなかったと記されています。ここからも、穢れは人間の認識が生み出すのであって、認識されない穢れはもはや穢れではないという考えがうかがえるでしょう。

話を元に戻しましょう。「穢れ」が「見る」という認識行為と相即しているという事態は、もうひとつの重要な帰結を導きます。穢れは、「空間認識」によって規定されるのです。イザナギにすがたを見られたイザナミは、《吾に辱見せつ》と言って彼を追いかけます。そこでイザナギは、ヨモツヒラサカに千引の石を引き塞えて、イザナミにコトドを渡します。「ヨモツヒラサカ」の「ヒラ」とは、切り立った崖を意味します。すなわち、地上と地下深い世界とを行き来するための通路をなす境界の意であって、それが「サカ」、つまり境という言葉に通じます。この黄泉の世界と現世との境に石を置くとは、生と死とのあいだに境界を画定することを意味して、この境界画定を宣言する行為が「コトド」に他なりません。「コトド」の「コト」とは「別」であって、つまりは別れの言葉なのですが、ただし、ひろく信じられているように、これをイザナミに離縁を告げる言葉と解釈するのは間違いです。「コトド」とは、モガリにおいて生死不明の状態にある死者に対して、死を確認してそれを宣言する呪言なのです。ゆえに、コトドは、感覚の次元でも観念の次元でも、生の空間と死の空間の境界を線引きする行為と言わねばならないでしょう。よく黄泉国訪問譚と比較されるオルペウスの冥府下りの物語でも、オルペウスは、「振り向くな」と禁じられていたにもかかわらず、地上に出た瞬間にエウリュディケーを案じて振り向いてしまいます。そのときオルペウスが目撃するのは、エウリュディケーが生の境界線の向こう側に立っているすがたです。つまり、この神話の中でも「見る」という行為はそのまま境界画定の行為と相即しているのです。

じっさい、モガリとは、喪屋を建てて、死体の安置されている空間と生者のそれとを区別する営為であって、この喪屋は「モガリの宮」とか「アラキの宮」と呼称されます。『総合日本民俗語彙』によると、青森県の津軽地方では、喪のある家の表口に二本の木をななめ十字に組んで立て、これをモガリと呼ぶそうです。これは要するに、かつて死体の置かれていた空間を垣根で囲んでいた習俗の名残りです。同じく、茨城県では小児を葬るさい、四十九本の青竹を割って周囲に柵を結い、これをモガリと称していたという話からも、このことは確認できます。そして、死者のための空間を画定するというモガリの意識は、平安朝の穢れの観念へと受け継がれます。すなわち、穢れが伝染する範囲は、空間の境界によって定められていたのです。たとえば、建物の壁に囲われた空間は、建物の外部で発生した穢れから、建物内にいる人を守ってくれます。反対に、建物の内部で穢れが発生したさいには、穢れは建物を囲む垣根を越えてひろがっていくことはないとされていました。

今や、わたしたちは、黄泉の国におもむいたイザナギが穢れに触れたとされる理由を、完全に理解することができます。イザナギは、モガリの宮でイザナミと空間を共有したから、穢れを身に受けたのです。なぜなら、モガリにおいて生死未分の存在に決定を下すとは、自分自身がこの生死未分の中間状態へと入り込むことを意味したからです。「見る」とは、視の対象と同じ世界に帰属することです。死を見つめようとするひとは、死において、死から見つめ返される。それが、「空間を共有する」という事態の本質に他なりません。だからこそ、モガリという行為は、穢れという危機的事態を触発すると同時に、視覚と切っても切り離せない関係を有するのです。

そして、ここであらためて『竹取物語』の記述を振り返るなら、この地上世界のすべてを「穢きところ」と呼ぶ感覚が、『古事記』の世界観といかにかけ離れているかということに気づかされます。『竹取物語』の世界では、穢れの概念は、モガリの空間を越境して、極限にまで拡大されています。そしてその背後には、おそらく、仏教によってもたらされた火葬の経験が潜在しています。

繰り返しになりますが、モガリとは、生から死への移行態にある死体を、完全に死が確認されるまでの期間だけ保存することでした。つまり、モガリの死体は、再生する可能性を保持しています。それがヨミガエリです。じっさい、『日本霊異記』には、ヨミガエリにまつわる挿話がいくつか収録されています。そして、それらのエピソードでは、突然に死を遂げた人物がいて、その死体を《モガリして置く》と、数日後にヨミガエるという物語のパターンが共通しています。しかし反対に、『霊異記』には、火葬によって葬られたひとの話も載せられています。中巻二十五に曰く、死すべき定めにあった或る女が閻魔の使いに賄を送ったおかげで、この使いの鬼は、同名の女を冥途に連れて行きました。しかし、鬼のごまかしは閻魔の知るところとなって、冥途に連れて来られた女は現世に帰ることになります。ところがすでに、女の身体は焼かれてしまっていました。そこで代わりに、本来死すべきだった女の身体に入ってヨミガエる……そんな話です。つまり、火葬は死の最終決定であって、ひとたび身体が荼毘に付されてしまっては、もはや蘇生の可能性は絶無となってしまうのです。

前節で見た通り、『竹取物語』の時代とは、相異なる文化の混淆によってあいまいになった日本のアイデンティティがあらためて画定された時代です。そして、生と死の境界線をどこに引くかという問題もまた、この時期に火葬という新しい方法で、新しい回答が与えられるようになりました。死者に対して向き合う態度が変化した結果、生から死への移行態という観念もまた変質をこうむるでしょう。すなわち、人間が「生きる」ことそれ自体が、すでにして生死未分の状態、すなわち「穢れ」であるとする思想が誕生するのです。それが「穢土」という観念です。どうして竹取の翁に《さかきの造》という名前がわざわざつけられているのかという謎の答えもまた、この点に存します。というのは、作者が竹取の翁の素性をどのようなものとして構想していたかに関係なく、翁に「造」という「姓(カバネ)」が与えられている点こそが重要だからです。

「姓」とは、本来は地方豪族の称号だったものが、大和朝廷によって政治制度として組織化され、社会の階級をあらわす呼称となりました。しかし、さらに下って律令国家の時代になると、姓は一般民衆にまで拡大されて、誰もが戸籍をもつようになります。血縁集団という発想は、「姓」という表現を与えられてはじめて実体化するものです。つまり、戸籍制度の発足から百年以上の時間を経て平安朝の時代には、一般民衆にまで「家族」という概念が浸透していたということです。だからこそ、竹取の翁は、かぐや姫に対して、「女性のしあわせとは結婚して、男女の契りを交わして一門を増やすことだ」と説くのです。しかし、人間が生殖によって子孫を増やすという行為の裏には、人間が死すべき存在だという事実が存在します。その意味で、「姓」は「屍」に通じるのです。

生殖も死もかぐや姫にとっては、同じひとつの現象の表と裏に過ぎません。すなわち「穢れ」です。かぐや姫にとってのこの地上の人間は、イザナギにとっての黄泉のイザナミにひとしい存在だと言い換えてもかまいません。かぐや姫が貴人たちからの求婚をこばみ続けるのは、穢れに触れまいとする努力であって、つまりはかたちを変えたコトド渡しなのです。だから、かぐや姫は、五人の皇子たちに絶対に達成不可能な試練を課しました。そうして五人の皇子たちは、かぐや姫にほんろうされながら、はじめから失敗が約束されている冒険を繰り広げるでしょう。その中には、石作皇子のように、ずるくて姑息な振る舞いもあります。車持皇子のように、同じ詐術にしても大胆不敵で、機知にあふれた作戦もあります。阿部御主人のように、間抜けで、それだけに憫笑を引き起こす顛末もあります。大友御行大納言のように、すったもんだの滑稽譚もあります。中納言石上麻呂足のように、精一杯力を尽くした甲斐もなく、みじめに失敗して破滅する悲劇もあります。しかし、そんな人間的な喜怒哀楽のすべてが、かぐや姫にとっては穢れに他なりません。

このことを象徴的に表現しているのが、かぐや姫が帝に言い寄られて、あわや連れ去られようとした場面での出来事です。そのときかぐや姫は、帝にこう言います。「わたしがこの国に生まれたものであったなら、お宮仕えもいたしましょう。しかし、そうではないのですから、お連れになるわけにはいかないでしょう」。そして次の瞬間、かぐや姫は、突然影になって消えてしまいます。ここでかぐや姫の言う「国」を、国家とか政治体制とかといった意味に解してしまうと、もうその次の展開の意味がわからなくなってしまうでしょう。この「国」という言葉は、「黄泉の国」がそうであるように、ひとつの次元を指し示します。したがって、「この国に生まれたのではない」というかぐや姫の台詞は、地上の人間と自分とではそもそも「生」の次元が違うのだということを言っていると解さなければなりません。生の違いは世界の違い、すなわち帰属する空間の違いです。だから、かぐや姫は、影のようにかき消えて、人間である帝には見えも触れもしない存在へと変貌します。「影のようになる」とは、かぐや姫が地上と同じ空間に属していないというテーゼの想像的表現です。そしてそれゆえに、のちに姫がじつは月のひとだったと明かされるとき、その意想外の展開が読者にすんなりと受け容れられるための布石ともなっているのです。

「生きる」という事態の内容が本質的に異なる以上、かぐや姫と地上のひとびととのコミュニケーションは、最初からすれ違いに終わることが決定しています。たとえかぐや姫その人が共感と同情とを示しているように見える場合でさえ、この大前提は揺るぎません。なぜなら、かぐや姫を本当の娘のように愛して慈しんだり、姫が月に帰らなければならないと聞いて「いっそ死んだ方がいい」と嘆き悲しんだりする竹取の翁の思いも、月を見あげては憂い悩んだり、竹取の夫婦を残して月に帰ることを心苦しく感じたりするかぐや姫の思いでさえも、物語の結末では、すべてひとしく「穢れ」として決着をつけられる定めにあるからです。しかし、それと同時に、この結末においては、「言葉」と「穢れ」という『竹取物語』のふたつの主題が、一瞬の邂逅を見せるでしょう。わたしたちは最後にこのことについて考えてみなくてはなりません。

4. ものをかたることのあはれ

かぐや姫が地上に対峙するときの態度というものを考えるとき、『古事記』の国譲りの段、アメノワカヒコにまつわる挿話が連想されます。アメノワカヒコとは、葦原中国の荒ぶる神々を平定するために、高天原から遣わされた神です。ところが彼は、葦原中国に降り立つと、土着の神の首長である大国主の娘、下照比売(したてるひめ)を妻にめとって、この国を支配してやろうという野心を抱き、天への復命を放棄してしまいます。その結果、彼は、最後には天からの呪いを受けていのちを落とすことになりました。

しかし、この話にはさらに続きがあります。すなわち、アメノワカヒコの妻・下照比売は、夫の死を嘆き悲しんで、その哭き声は風とともに天にまで届きました。そうして彼の死を知ったアメノワカヒコの家族が地上に降りて喪屋を建て、八日八夜のあいだ哀哭し続けていると、ワカヒコの友であったアヂスキタカヒコネがとむらいに来ます。ところが、アヂスキタカヒコネを見た家族たちは、彼の容姿が生前のワカヒコととても似ていたせいで、ワカヒコがモガリからヨミガエったのだと勘違いして、「わが子は死なないでいた」、「わが夫は死なないでいらっしゃった」と言うと、彼の手足にすがって泣きました。するとアヂスキタカヒコネは激怒して、「親しい友と思えばこそとむらいに来たのに、どうしてわたしを穢い死人になぞらえるのだ」と叫び、剣を抜いてワカヒコの喪屋を切り倒して、足で蹴飛ばしてしまうのです。

アヂスキタカヒコネが、アメノワカヒコと見間違えられたことに怒った理由は、モガリという観念を延長することで理解できます。すなわち、生死未分の閾であるモガリにおいて、死者であるワカヒコに「なぞらえられる」ということは、アヂスキタカヒコネにとって、文字通り致命的な危機を引き起こしかねない事態なのです。だから、アヂスキタカヒコネがワカヒコの喪屋を破壊したのも、たんなるうっぷん晴らしではなく、《穢き死人》になぞらえられた危機に対処するための呪的行為と考えなくてはなりません。つまり、アヂスキタカヒコネは、ワカヒコのモガリを強制的に終了させることで、ワカヒコの死を完全に確定してコトドを言い渡したと考えるべきなのです。

しかし、ワカヒコの喪屋が破壊されたことの背景には、もうひとつの理由が存在します。それは、アメノワカヒコが、国つ神たちを平定するために葦原中国に派遣されたにもかかわらず、その使命をまっとうせず、かえって国つ神たちにおもねるような《邪き心(キタナキココロ)》の持ち主だったことです。のみならず、ワカヒコは、高天原から彼の様子を見に来た使者である雉を矢で射殺することまでします。この矢は、雉を貫いて、天つ神のいる天にまで射上げられました。それゆえに、天つ神は、「もしアメノワカヒコに邪き心があるならこの矢に当たって災いあれ」と宣言して矢を投げ返すことで、ワカヒコを呪い殺すのです。つまり、アメノワカヒコの死は、不吉な死に他ならないのであって、モガリをまっとうして祖霊たちのいる世界へと移行することははじめから禁じられていました。こうして、ワカヒコの霊は、永久に安らぎをうることなく、この地上をさまよい続ける死霊となるでしょう。

このアメノワカヒコの物語を、かぐや姫のそれと比べるなら、両者が一種の対称型をなしていることに気づかされます。すなわち、かぐや姫は月の世界で罪をえた結果、この地上に降りてくるものの、人間世界の栄華におもねることなく、地上の首長たる帝に嫁いで国を支配しようという野心を起こすことなく、月からの命にしたがってまた元の世界へと帰って行きます。つまり、かぐや姫は、ワカヒコと違って地上に執着する《邪き心》をもたない人物なのです。しかしながら、かぐや姫は、《邪き心》を自分の意志で克服できていたわけではありません。なぜなら、かぐや姫は、竹取の翁に自分の出自を説明してから、こう語るからです。――「わたくしは、この世界で長いあいだお世話になってすっかり慣れ親しんでしまいました。今さら月の世界に帰ると言っても、嬉しい気持ちなど感じず、ただただ悲しいばかりです。けれども、自分の意志ではどうにもならないことなので、帰らなければならないでしょう」。つまり、『竹取物語』の世界では、地上に残るか天に帰るかの選択は、もはや自発的な意志でどうこうするものですらないと言わねばなりません。ここに「穢れ」の観念の決定的な転換があります。『古事記』と違って『竹取物語』では、穢れた心をもっているかどうかが問題にされているのではありません。その代わりに、心とはもとより穢れではないかという問いが、新たに思考されているのです。

先にわたしたちは、かぐや姫と地上のひとびととでは、「生きる」という概念の内容が決定的に異なっているということを見ました。それでは、『竹取物語』の作者は、月のひとびとの生をいったいどんな具合に思い描いているのでしょうか。かぐや姫は、月のひとは《いとけうらに、老をせずなん。思ふこともなく侍るなり》と語ります。《老をせずなん》とは、つまり、「時間にともなう変化が存在しない」ということを意味します。また、そう解釈するなら、月のひとびとがかぐや姫を迎えに来る場面の描写も、理解可能となります。というのは、竹取の翁が帝に要請して用意してもらった武士たちは、月のひとびとが天から降りてくるや否や、気力がなえて、身動きができなくなるからです。「周囲のひとびとの毛穴が見える」と形容されるほど明るく神々しい光に満たされる空間を背景に、他のすべての人物が静止している中を、かぐや姫だけがひとりしずしずと月からの迎えの前に歩み出る光景は、『竹取物語』の描写の中でもっとも美しく神秘的なものだと言えますが、この場面の要点は、《いとけうらに、老をせずなん》と語られる月のひとびとの属性が、視覚空間に仮託して描き出されているというところにあります。つまり、清らかな月の光に満たされて、完全なる静謐が顕現しているこの空間では、つかの間のあいだだけ地上が天の世界へと変容を遂げているのであって、この神秘の世界では、時が止まっているがゆえに、運動も変化もありはしないのです。したがって、月のひとは《思ふこともなく侍る》と語るとき、『竹取物語』の作者は、「老い」だけでなく「思い」もまた、時間の中に生きる存在に固有の属性だと考えていることになります。

そもそも「喪」とは、「オモヒ(思)」に由来する言葉だそうです。地上の人間が思いを抱くことと、死に定められていることとは、人間が時間の中で変化しながら生きる存在だという単一の事実が見せるふたつの相貌に他なりません。それゆえに、かぐや姫は、月からの使者に差し出された不死の薬を口にして天の羽衣を身にまとうと、その心は変容してしまい、竹取の翁を愛おしく悲しいと思うこともなくなって、月へと帰っていってしまいます。その直前に、かぐや姫は、翁に向かって「あなたを見捨てて帰ってしまうのでは、天にのぼる道中でも、また地上へと落ちてしまうような心持ちがいたします」と書き置いた手紙を残しているだけに、このかぐや姫の変容は、よりいっそう残酷な現実となって読者に突きつけられます。翁のことを愛して、別れを憂い嘆いていたかぐや姫はもはや消滅して、どこにもいなくなってしまい、ただ過ぎ去った思いを書き付けた手紙だけがあとに残されるばかりです。しかし、「思い」と「言葉」の関係とは、いつもそういうものではないでしょうか。じっさい、地上を去る最後の瞬間にかぐや姫が帝のために詠じた一首こそ、この両者の関係について表現した歌に他ならないのです。

今はとて 天の羽衣 きるおりぞ 君をあはれと 思ひいでける

この歌に言う「あはれ」とは、「愛しい」という意味でも「可哀想」という意味でもあって、このふたつの意味が分ちがたく結びついています。じっさい、「愛しい」という思いを抱くことはまた、哀れなことなのです。なぜなら、ひとが心に抱く思いも、思いの対象も、この地上の時間の中ではいつか必ず滅びずにはいられないからです。だから、かぐや姫は、この歌を詠んでいる今この瞬間には帝のことを「あはれ」と思っていようと、歌を詠み終えた次の瞬間にはそう思わなくなってしまいます。そして、ただ「あはれ」という言葉だけが残存するでしょう。これが竹取物語の最終的な帰結です。言い換えると、永遠は人間の手に届くかどうかという問いが、『竹取物語』の究極の主題なのです。

もともとかぐや姫は、竹取の屋敷の奥に閉じこもって隠れ続け、家族を除いて誰の目に触れることもなく、求愛の手紙に答えることさえありませんでした。そんなかぐや姫がどうして男たちの評判を呼び、貴族たちから求婚を受け、帝まで呼び寄せる展開になってしまったのか。これを、「おとぎ話だから」の一言で片付けてしまうのは、『竹取物語』の作者の知性をあなどる行為だと言わねばなりません。発想を逆にしなければならないのです。かぐや姫は、誰の目にも触れたことがなかったからこそ、また誰からの誘いをも拒み続けたからこそ、万人の欲望を掻き立てたのでした。なぜなら、人間は未だ見たことの無いもの、未だこの世界に存在しないものをこそ真に欲する生物だからです。そしてそれゆえに、かぐや姫は、この時間の中で生成変化する世界を超越して、これに絶対の「否」を通告する存在として、欲望の究極の対象たる永遠を象徴するのです。

穢土を超越した世界を「月」に重ねてイメージするという『竹取物語』に固有の発想も、おそらくはこの点に由来します。というのは、歳月を通じて変わることなく天を周回する「月」は、一方では、当然ながら経過する時間に通じるとともに、他方では、時間を超えてけしてうつろわないものの存在を想起させるからです。この意味で、月とは、時間的な世界と非時間的な世界の境界面であって、言うなれば、天に引き塞えられた「千引の石」として構想されているのです。さればこそ、月のひとびとは、わたしたち地上の人間に対してコトドを渡すでしょう。この穢土の世界に永遠は存在しないのだと。それが、大陸の文化との混淆という危機の時代を経て、『竹取物語』の作者があらためて画定した人間と神的なものとの関係性に他なりません。

「今は昔」という言葉ではじまった『竹取物語』は、「言い伝えたる」という言葉で閉じられます。過ぎ去っていくものは、ただ言語の中にのみ保存される。それが、死に定められているあわれな存在に到達可能な限界点です。言い伝えは、不死の薬を燃やした煙は、未だ雲の中へとたちのぼると語ります。富士の煙は、荼毘の煙です。「不死」が「ふじ」へと読み替えられるのは、たんなる地口なのではありません。不死ならぬ人間には、大切な思いが荼毘に伏されたあとに残る、言葉――文字と音韻――という遺灰を獲得することしか許されていないのです。しかも、その「言い伝える」という営みでさえ、たちのぼる煙がいつ途切れてもおかしくないように、いずれ途絶えてしまうでしょう。富士から煙がたちのぼる光景は、人間が「ものをかたる」という行為のあわれを、これ以上ないほど痛切に表象しているのです。(横道仁志)