(小説、第21回早稲田文学新人賞受賞作、「早稲田文学」2005年1月号所収) 写真:第九次「早稲田文学」の表紙群。(「早稲田ウィークリー」のウェブサイト(http://www.waseda.jp/student/weekly/contents/2005a/065j.html)より引用。)
 
 五合目で酔ひつぶれるや蝉しぐれ

 五合目とは、不二山(富士山)の五合目のことである。語り手の「おれ」は、「パート募集 巫女 十八〜二十二才迄」という求人広告の上に貼られていた「不二山頂登頂者募集 急募 日給五千円」という怪しげな募集に応募し、八月一杯をかけたこの仕事を受けることにする。仕事内容は、不二山の観光シーズンに併せた神主の業務補佐であり、仕事場は、五合目から徒歩で四時間のところ、まさに不二山頂である。冒頭で引いた句は、五合目から山頂に登ろうとするものの、うねった山道を進む神社のマイクロバスでしたたか酔ってしまった語り手が発する一句である。このナンセンスな一句が、文字通り、本作を象徴していると言っても過言ではないだろう。

 しばしば町田康に比される全体的に軽妙でとぼけた筆致、外国人観光客との妙にずれた会話など、おかしみを誘う旺盛なサービス精神、さりとて、近代文学でしばしば取りざたされる超俗的な感興(への沈潜)に対する禁欲的な抑止を湛えた該作は、いわば知られざる静岡SFの傑物として、静かな存在感を見せている。何より、主人公に輪をかけて奇天烈で、大学の法学部を出ながらもめぐりめぐって新宿で屋台を引く牛乳屋となり、餃子売りへ転身した巨勢(こせ)の強烈なインパクトはいちど読むと忘れられない。二人が乗った車がスピーカーから鳴り響く「ギョーザー」という音を止めることができずに高速道路をひた走るシーンは爆笑ものだ。

 しかしなぜ、筆者の知る限りSF者が誰も言及したことのない該作を、静岡SFと言うことができるのか。それは、不二山の頂上というモニュメンタルな地勢を文字通り「征服する」というプリミティヴな欲望に対し、可能な限り批評的な眼差しを注ごうとしているからにほかならない。ちょろっと富士山(=不二山)が出てくるから静岡SF、どころの話ではない。富士山の上で、文字通り暮らしてしまう静岡SF、それが「不二山頂滞在記」なのだ。不二山は「日本」という国家、そして国家が体現する近代精神の象徴としてまま語られるが、該作は観光客的な興味本位以前の段階、すなわち状況にひたすら流されるだけの無目的かつ無為無策な語り手の境遇を契機としているという不遜な作品なのである。

 極めて批評性の高い現代日本文学として評価されている阿部和重の『プラスティック・ソウル』では、皇居という日本の「空虚なる中心」の周りをぐるぐると回る光景が描出されたが、一方の「不二山頂滞在記」は、こともあろうに、不二山の中心へあっという間に飛び込んでしまうという、おそるべき蛮勇を見せてくれる。まさに「見る前に跳べ」(大江健三郎)という文学的スローガンを体現しているというわけだが、この大胆不敵さは、これまでいわゆる「SF文壇」で批評の対象となってきた作品群に負けず劣らずSF的だと言えるだろう。

 神鳴りもここ不二山より見ればかわいらしいものだ。
 おれは天穹を仰ぎ見た。おお、星だらけ。星の連なりを寒さに耐え得る限り見つづける。(「早稲田文学」2005年1月号、192頁)

 上記引用部では、語り手が「星」を見て得た感興がさらりと記されているが、この感興を一種のセンス・オヴ・ワンダーと理解してしまっては贔屓の引き倒し、SF者ならではの穿ちすぎとの誹りを逃れられないだろうか。しかしながら語り手の姿勢は、おそらく多くのSF大会の参加者に共通するものがあるだろう。彼らの大多数は、そこにSF大会があるからはるばる地方へ遠征するのであって、その逆ではない。そこでは、すでに存在する象徴的な何かを事後的に追認するのではなく、SF大会というフレームをもって、その土地土地の特徴が読み替えられ(いわば「SF化」され)、ひいては支配的な文化的な共通項(コード)に新たな価値が付与されることになるわけだ。

 だがそもそも、仮に近代文学の延長線上にSFを位置づけるとするならば、SFを読むという行為は、世界をそのように読み替えること、世界を絶えず「SF化」していくことにほかならない。すでに「SF化」が完了してしまっていたとしてもなお、その事実すらをも呑み込む形で、再帰的に世界の「SF化」は進行していく。しかしながら、商業的に支配的な(しばしばサブカルチャーの形をとった)コードを無批判に並べる形で、その土地土地の特性を殺していき「フラット化」を進める類の文化的均質化と、「不二山頂滞在記」の方法論が求める「SF化」はまったく異なるものがある。

 そもそも「不二山頂滞在記」のSF性は、これまで商業媒体で取り扱われて来たSFガジェットとはまったく関係ない。SF者を唸らせる精緻なロジックや奇想とも無縁である。にもかかわらず、本作にはジュディス・メリルやラングドン・ジョーンズのアンソロジーに入っていてもおかしくないくらいに、SF者の心をくすぐる何かがある。ニューウェーヴSFの現代的継承がここにある、と言えば、草葉の陰にたたずむジュディス・メリルに失笑されてしまうかもしれない。いや、メリルならば大手を振って受け入れてくれるに違いない。

 かつて筒井康隆は、SFマインドをもった書き手が記したものはみなSFだとうそぶいたと言われるが、それこそ筒井康隆のような「SFマインド」を期待しても肩透かしを食らうだろう。現代文明を嘲笑うかのような大胆な風刺も該作には備わっておらず、かといって、これがSFじゃないと言い切るのは躊躇われるからだ。こうした異質性が、主人公が山頂で過ごす日々、出逢う人々とのどこか噛み合わない暮らしぶりにリンクしてしまうところが面白い。そのうち、「不二山頂滞在記」のテクストによって、書き手当人すら意識していなかったであろう文学史的な記憶を喚起させられることとなる。ここには、「フラット化」によってまま見過ごされる、細部の愉しみがある。だから私たちは、「不二山頂滞在記」を読むとことで、フラット化の暴力が奈辺にあるのかを認識することが可能になると言ってしまっては、持ち上げも過ぎるだろうか。

 「不二山頂滞在記」の語り手は、「あと半月の勤務」を残し「痛いわけでもなく、重いわけでもなく、山酔いとも違って、頭の奥で何かが引っかかって流れない感じ」に見舞われる。この痛みに耐えても結局は神主になることができないとわかった彼は、「登りに四時間かかった山道を二時間」で帰り、いわば「還俗」することになる。さらりと書かれたここでの苦悩とその帰結へ、仮にクリストファー・マーロウが描いたファウストゥス博士の無念を重ね合わせたとすれば、雅雲すくねは考えすぎだと苦笑するに違いない。にもかかわらず、雅雲すくねの方法論を「フラット化」の一途をたどる状況に対置するものとして置くのは、決して無理のある理解ではない。

 実は、雅雲すくねは二作目のない作家なのだ。しかしながら、何らかの特殊な理由があって二作目が出ないという事情を仄聞してはいない。察するに、状況が二作目の掲載を許さなかったのではなかろうか。というのも、雅雲すくねが第21回早稲田文学新人賞を受賞してから間もなく、2005年5月号をもって、「リトル・マガジン」としての反骨的矜持を貫いた第九次早稲田文学はやむなく休刊してしまったからだ。以後、筆者の知る限りにおいて、第十次早稲田文学くとして復活してからも、雅雲すくねの名前を商業媒体において見かけたことはいまだない(*1)。

 なぜなのだろう。「不二山頂滞在記」が新人賞受賞作として選出される過程を掲載号において読むことができるが、そこでは該作にはさしたる期待は寄せられておらず、むしろ「早稲田文学」という「リトル・マガジン」の外部でもこの人は活躍できるだろうという、期待半ば皮肉半ばのコメントが選考委員から寄せられている。そこに悪意は感じない。しかしそれならば、たとえ細々とした形であっても、雅雲すくねは生き残りを見せてもよかったのではないか。

 このように考え「不二山頂滞在記」が掲載された「早稲田文学」全体の読み直し(リ・リーディング)を行ってみた。再読を経てみると、(図らずしも)該作が、第九次早稲田文学の末期を象徴する「近代文学の終わり」(柄谷行人)に対置されていたことに、改めて気づかされた。「近代文学の終わり」とは、文芸評論家として著名な柄谷行人が、文学の仕事から離れることを意思表明した、一種の宣言文として読むことができる。そこでは、近代文学はもはや、社会における普遍的な問題(たとえば、環境問題)を正面から取り上げるだけの実効性を欠いているとの指摘がなされた。

  「早稲田文学」上で、「近代文学の終わり」について正面から異議を表明した書き手として、笙野頼子と向井豊昭の二人の名前を挙げることができる。向井豊昭については、かつて別の文章を書いたことがある(※2)のでここでは深入りしないが、「不二山頂滞在記」の掲載号は奇しくも、笙野頼子の「反逆する永遠の権現魂」の初出号となってもいる。「反逆する永遠の権現魂」は、現在は笙野頼子の『徹底抗戦、文士の森』(河出書房新社)に収録されているが、同書は「近代文学の終わり」と「フラット化」の暴力について、一人の書き手が果敢にも戦い抜くという姿勢を記したものである。そして、奇しくも笙野頼子の名文と肩を並べることになった「不二山頂滞在記」は、いわば「近代文学の終わり」以後、新しい世代がいかなる文学的実践を行なうべきか、その最初期の事例として配置がなされたようにも理解することも可能なのだ。

 しかしながら、雅雲すくねはデビュー作を発表してから沈黙を余儀なくされた。一方の笙野頼子が戦っていた状況は、さらに拡散を続けて、その全体像はますます把捉が困難なものとなっている。こうした状況は、直接的にも間接的にも、SFをめぐる言説にも大きな影響を与え続けている。静岡SF大全のみならず、SF評論は、そしてSF評論を支える読み手は、こうした問題についての思考を、否応なしに強いられていると言わざるをえない。あるいは、私たちはシニカルに唇の端を歪めながらこうした状況を是認するか、あるいは、確たる後ろ盾なしに孤独な奮闘を強いられるか、二者択一を迫られてしまっていると言ってもよいだろう。

 この点についてより主題的に考えることは、すでにこの「静岡SF大全」のフレームを逸脱してしまいかねない。しかし「不二山頂滞在記」が体現した問題について、笙野頼子の『海底八幡宮』、『人の道御三神といろはにブロガーズ』を検討していきながら、別の場所にて引き続き考えていきたいと思うので、お付き合いをいただければ幸甚だ。

 だがいまは、間近に迫ったSF大会を全身で楽しみ、できれば終わった後にでも時間を見つけて、まだご存知ない方は「不二山頂滞在記」に触れてみてほしい。だいじょうぶ、「不二山頂滞在記」の語り手たちのような連中ですら平気だったのだから、「たまたま参加した」「たまたま読んだ」でもなんとかなる、きっと。むしろその、貴重な「たまたま」、よき「たまたま」を大事にしよう!(岡和田晃)
 

(*1)ただし、2011年8月現在において、雅雲すくねの活動は、以下のホームページにおいて観測することができる(http://gaunsukune.web.fc2.com/situation.html)。そこでは、なめたけの作成、声楽家北村哲朗氏のホームページ作成といった活動歴のほかに、手書き原稿であった「不二山頂滞在記」のタイプ打ちが進んでいるという進捗報告が進んでいる。現在入手困難となっている「不二山頂滞在記」を、何らかの形でふたたび目にすることのできる日は近いのかもしれない。いずれにせよ、雅雲すくねの復活を強く望むものである。

(*2)向井豊昭アーカイブ(http://www.geocities.jp/gensisha/mukaitoyoaki/index.html)を参照。