「キングコング対ゴジラ」一九六二年、東宝株式会社、監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二、出演:高島忠夫、藤木悠、有島一郎、浜美枝、若林映子。
ゴジラシリーズの第三作。観客数は千二百五十五万人を記録し大ヒットとなった。
「キングコング」一九三三年、RKO制作、監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック、出演:フェイ・レイ、ロバート・アームストロング・ブルース・キャボット。空前の大ヒットとなった。キングコングの熱狂的なファンのピーター・ジャクソン監督によって2005年にも制作された。日本のゴジラシリーズはキングコングの正規のライセンスを得たものである。

はじめに
 かつて神話が現実であった時代には人々は怪物を信じ怖れ、鎮めるための祭りを行ってきた。現在では神話は神話にすぎなくなってしまったが、怪物は現実から消えてしまったわけではない。「キングコング」や「ゴジラ」のように映像化されて登場し、大変な人気を呼んだのである。ところがこの二つの作品は、発表当時には、評論家からほとんど問題にされず、キワモノとしてしか論じられなかった。「キングコング」は馬鹿にされ、映画評論家は論ずることを恥ずかしがって、まともに取り上げなかった(1、21-28頁)。「ゴジラ」も同様であったが、さらに「キングコング」よりも低く評価され、「ゴジラ」派の人々を怒らせた(2、93頁)。「ゴジラ」は発表当時から「キングコング」のライヴァルであり、両者は戦わなければならない運命にあった。それにしても、なぜ怪物はこのようにおとしめられながらも、人々を強く惹きつけるのだろうか。

都築道夫のキングコング体験
 「母に手をひかれた幼いころ、たった一度だけこれ(王子電車、現在の都電荒川線)に乗ったとき、市電の終点からアーチまで歩くあいだに、右がわの映画館の前に巨大な怪物が立っているのを、私は見た。ベニヤ板を切り抜いたキングコングの絵看板で、それにショックを受けた記憶が、私のなかで強烈に、王子電車とむすびついている」(3、上巻、62頁)。
 都築道夫はキングコングとの出会いをこのように書いている。彼が、幼い頃受けたこのショックを、おそらく半世紀ほどたっても、これほど鮮明に記憶していたのはなぜだろうか。ここには、子どもと怪物の関係を解き明かすヒントがある。
 都築にとって、大人になっても忘れられないというショックは、体に染みつくほどの恐怖の体験であったことを意味している。そのとき、都築少年は、母親と一緒に王子電車に乗っている最も幸せな時であった。ところが、怪物はそこに突然容赦なく侵入して、幸せを根底からおびやかしたのである。
 このショックの原因は、都築少年が初めて人間として目覚めて、自分の世界を発見したところに由来する。彼は母親と一緒に王子電車に乗っていた。彼は自分が幸せであることに気がついた。ところがそのとき得体のしれない恐怖が襲いかかってきた。彼は幸せと同時に、その幸せが破壊される危険があることも発見したのである。都築少年の場合、昂揚した幸せな感情はとてつもなく大きなものに向かって投影された。そこには、闇の中に何やら巨大なものがあった。それは一挙に生命を与えられ、強烈な恐怖として跳ね返ってきたのであった。
 しかし都築少年は負けなかった。彼は、この怪物が、実は大きなキングコングの看板であり、電車の中に侵入する危険はないということを見破ったのであった。それは彼の知性の勝利であり、世の中を見る目が成長したことを意味していた。恐怖は意識的に抑制されて、素敵な電車の中に母と一緒にいるという光に満ちた幸せへと反転した。都築がこのエピソードを忘れられないというのは、その頃から、物心がついて利口になった喜びを意味している。すなわち、自分と周りの世界との関係が、恐怖をうまく抑制することによってはっきり意識できるようになったのである。
  都築道夫の体験は、恐怖が愛する人といる幸せな時間をさらに輝かせるということ、それから人間の心には子どもの頃の恐怖が隠れていることを示している。「キングコング」や「ゴジラ」などの怪獣映画を見に行った子どもは、たいてい家族とか親しい人と一緒であり、その時の恐怖と幸せは忘れえぬものになる。

キングコング
 キングコングとゴジラはいずれも怪物であり自然の中で誕生した。しかしどちらも突然現れそこにいたのであり、祖先ははっきりしない。またその祖先を問う人などは誰もいない。しかし、怪物の概念は神話と密接な関係がある。したがって、同じ怪物でも、西洋人の生み出したキングコングと日本人のゴジラとには差異がある。
 キングコングは、ギリシア神話の怪物、ギガンテスの流れをくんでいる。ギガンテスの中のティオテュオスは身を草原に横たえると、九エーカー(36.420平方メートル)を覆うほどの大きさだった。またエンケラドスは抑え込むのにアイトナ山全体をのせておかなければならないほどだった(4、226-223頁)。ギガンテスの中には人間と恋をしたり争いをしたりするものもあったというから、このような伝統は、キングコングと美女の関係として現れている。キングコングの行動は、人間的なところがあるが、これは西欧の怪物の特徴だろう。
 オリジナルの「キングコング」の背景は、山口昌男によれば(1、85-87)、「欧米の都市文化に抑圧してきた暗黒大陸アフリカへの潜在的な恐怖と憧憬が映像を通して噴出してきたようなところがある」。「暗黒大陸や奥地は、巨大なエネルギーを秘めた潜在的幻想空間として十九世紀から二十世紀、つまり人間の意識に対する反措定としての無意識が、時至らば主導権を握りうるということが次第々々に人に理解されてきた結果、『恐怖』の空間として造形化される条件が整って来ていたということである」。
 捕獲されたキングコングの存在理由は怪物として見世物にされることだけであった。大勢の見物人が押すな押すなと押し寄せてきた。ところが、人間の好奇心の創造した最もおぞましい怪物は、いったん創造されると破壊する恐怖の存在へと変わった。破壊することは怪物の使命である。しかしそのキングコングは美女に魅入られて、少しばかり人間化される。しかし、その人間化のためにキングコングはあえなく殺されるのである。

ゴジラ
 第一作の「ゴジラ」によれば、ゴジラは水爆実験によって太古の眠りから覚めた。ゴジラの誕生は人間の誕生と同時であったが、それまで眠り続けてきたのであった。ゴジラは人間の科学が内包する恐怖の極限の表現である。すなわち、原爆と水爆の犠牲者である日本人の核爆弾への生々しい記憶を視覚化したものである(水爆については、第五福竜丸がビキニ環礁で行われた水爆実験の死の灰をかぶった)。このように核爆弾の恐怖を背景にしているゴジラと、暗黒大陸の恐怖を背景にしているキングコングとは、まったくその恐怖の質が異なっている。したがって、ゴジラにキングコングのような人間的なところはないのは当然である。
 日本神話を見ると、日本における怪物の起源は八岐大蛇である(5)。大蛇は巨大で、八つの谷と八つの峰にわたっており、胴体一つに八つの頭と八つの尾がある。ゴジラも八岐大蛇に通ずる爬虫類のように見えるが、頭は一つで尾も一つであるが、その尾は強大な力を持っている。八岐大蛇は若い娘や酒を好物としているが、ゴジラには一切好みはない。英雄神スサノオノミコトは八岐大蛇を殺し、尾の中から草なぎの太刀という名刀を見つけた。八岐大蛇は完全な悪ではなかった。英雄がさらに力を増すことができる太刀を与えたのである。この神話には、人間と怪物との間の両価的な関係が示されている。
 ゴジラは東京に上陸し縦横無尽に暴れまわり、原子爆弾さながらに町を破壊した。しかし最終的に退治されていずこかへと消え去ったのである。ところが、「キングコング対ゴジラ」では、再びゴジラは氷山の下で目覚めた。ゴジラが日本を目指すのは、キングコングに襲われる危険を予知したからであろうか。怪物は怪物を呼ぶのだろうか。ゴジラは日本を蹂躙するが、同時にキングコングから日本を救うのである。

キングコングとゴジラは雄か雌か?
 キングコングは雄か雌か。キングコングがギリシア神話のギガンテスの流れにあるとすれば雄であろう。キングコングが美女を助けて優しく扱うのは雄である証拠と解釈できる。キングコングの大きさから、その「いちももつ」の大きさを推定した人がいて、平常時は百八十センチ強、勃起時は三百六十センチ強であるそうである。これではいかなる美女でもひとたまりもなく破裂してしまうだろう(1、88-95)。女性たちはただ恍惚と見とれ、男性は目を伏せて恥じ入る以外にないだろう。しかし雄である分だけ、キングコングは怪物性の度合いは低くなる。実際、人間の男性と同様に、宿命の女にそそのかされて、ついに破滅する運命をたどることになる。
 一方、ゴジラは雄か雌かわからない、性を超越しているという点で、出自は闇に包まれ、純然たる怪物あるいは怪獣といえる。したがってゴジラはキングコングのように美女を愛でることはない。ただ容赦なく、口から炎を吐き巨大な足で踏みにじり強力な尻尾で破壊するだけである。こうしてみると、巨大化した動物であるキングコングに比べて、ゴジラの方が怪物性が高い。

富士の裾野の真昼の決闘
 キングコングとゴジラは歴史を横断して、ウクロニーとして相まみえることになる。両者は、最終的に富士の裾野で雌雄を決する。クライマックスに入る直前にちらりと、うっとりするほど見事な富士山が現れる。これは、格闘技の始まる前に、美女たちがリングに上がって雰囲気を盛り上げる場面を想起させる。富士山が現れることによって、世紀の戦いの興奮は頂点に達する。真昼の日差しの中にくっきりと浮かび上がる富士山!このシーンは九州でも北海道でもダメであり、まさしく富士山でなければならない。
 ゴジラもキングコングも、夜に現れるお化けや吸血鬼や魑魅魍魎などのように、日の光の中で消えるようなひ弱なものではない。両者の「真昼の決闘」は、太陽と富士山の見守る中で正々堂々と行われる。恐怖の戦いは、優雅な熱海城を徹底的に粉砕しながらクライマックスに達する。建物を破壊しないと怪獣のだいご味はない。怪獣は人間の作り上げたものをいとも易々と瓦礫に変えるのである。

 竹内博は、この映画はキングコングとゴジラにどちらに勝って欲しいというような肩入れはなく、結果的には引き分けだったので後味がよかったと書いている(6、18-19頁)。円谷英二監督は、まだ時代劇映画のキャメラマンの時代に、「キングコング」を見て感動し特撮をやろうと決心した。したがって、円谷監督の思いはキングコングにもゴジラにも乗り移っている。
 子供たちは母親や父親の手をじっと握りしめて、かたずをのんでキングコングとゴジラの戦いを見守っている。恐怖と幸せの混合である。映画が終わって出てきたときの子供は、もはや映画を見る前と同じではない。子供たちはその恐怖の体験を乗り越えたことによって、少しばかり大人になっている。

参照
1. 季刊 映画宝庫 創刊号 1977。
2. 竹内博、山本慎吾編「完全増補版 円谷英二の映像世界」、実業の日本社、2001。
3.都築道夫「推理作家の出来るまで」上、六二頁、フリースタイル、2000。
4 トマス・ブルフィンチ、大久保博訳「ギリシア・ローマ神話」、角側文庫、1970年、226-227頁。
5. 「古事記」次田真幸全訳注、講談社文庫、1977、97-105。
6.竹内博「元祖怪獣少年の日本特撮映画研究四十年」、実業の日本社、2001。