『新世紀エヴァンゲリオン』(原作:GAINAX 監督:庵野秀明)
――異界としての静岡――

『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996)の舞台が、芦ノ湖畔の第3新東京市であることは、よく知られている。最近でも箱根町に、ローソン第3新東京市店がオープンして話題になった。そして芦ノ湖畔が舞台に選ばれたのが、使徒と呼ばれる奇妙な姿をした敵がそこに向かってやってくるからだという設定も、周知の事実である。さらに言えば、この駿河湾から富士山の方向に向かって「敵」が進撃するという設定が、円谷プロの怪獣たちの進撃ルートであることもSFファンならすでに気づかれていることだろう。しかしなぜ使徒や怪獣たちは、駿河湾から富士山に向かって進撃し、その途中の富士の裾野でウルトラマンやエヴァンゲリオンたちと戦うことになるのだろうか。恐らくそれは、関東の住民にとって、静岡という地域が伝統的に「異界」だったからではないかと思われる。

なぜ富士山麓が、怪獣の跋扈する場所になったのか。その直接的な理由は、やはり「富士講」に求められるように思われる。富士講というのは文化・文政期(1804-30)に、江戸で流行り始めた宗教的な集まりのことである。この講は、普段は、富士塚という小さな山を作ってそれに登ることで富士山に登ったことにするといったことをしていたが、富士山から行者が来たときには、代表者を選んで行者と一緒に、実際の富士に登らせたりもしていた。富士講において富士山とは、あの世の世界であり、六道輪廻、つまり救われない魂の世界だった。そしてその死後の世界を苦労して経巡ることは、救われない魂の労苦を肩代わりすることになると考えられていた。例えば重い荷物を背負って富士に登ることは、馬や牛など畜生道におちた人間の苦労を肩代わりすることになり、登山の途中でのどが渇いたり、お腹がすいたりすることは、餓鬼(常に飢えていて何か食べていなければ落ち着かない妖怪)に生まれ変わったものの飢えや渇きを癒すことになるとされていたのである。さらに富士山という死の世界から帰ってきた人間は、一度死んで生まれ変わったもの、言い換えれば、穢れない新しい命を得たものともみなされていた(擬死再生)。こうした特殊な信仰が生まれた背景を、五来重は、古来、富士山は葬送の地とされており、風穴と呼ばれる穴に死体を入れて風葬していたからだろうと述べているが、このような富士山を死後の世界、魑魅魍魎の跋扈する世界とみなす考え方を念頭に置かない限り、なぜ富士山をバックに怪獣が暴れるのかは理解できないはずである。

富士山と怪獣とのつながりで言えば、ダイダラボッチにも触れておかなければならない。ダイダラボッチとは、主に関東から中部地方に伝わっていた巨人伝説で、関東地方の沼地(相模原市大沼・八王子市池の窪など)には、ダイダラボッチが富士山を背負おうとして踏ん張った足跡だという逸話が残っている。また「奇談一笑」や『静岡県伝説昔話集』には、琵琶湖はダイダラボッチが掘った穴であり、その捨土が富士山だという途方もないスケールの話も残されている。こうした地形を変えてしまうほど巨大な神のイメージが、先に述べた魑魅魍魎のイメージと結びつくことで、円谷プロの怪獣たちになっていったのである。ちなみに宮崎駿は『もののけ姫』の中で、ダイダラボッチを半透明化したゴジラのように描いているが、これも宮崎が、ゴジラのイメージの原型が、ダイダラボッチであることに気づいていたからだろう。

こうした静岡が――より正確に言えば、箱根の関から向こうが――異界だというイメージは、江戸に幕府が開かれたことによって、さらに強化されることになったようだ。特に家康が、秀忠に家督を譲ったにもかかわらず、隠居先の駿府で実権を握っていたことは、いわば二重政権の状態を作り出すことになり、生まれたばかりの政権の基盤を危ういものにしていた。『甲賀忍法帖』(1958-59)に出てくる竹千代(徳川家光)と国千代(徳川忠長)との跡目争いも、もとを質せば、二重政権の構造から生まれた問題だった。もっとも家康死後、駿府政権は後ろ盾を失い衰退していき、新たに駿府にやってきた徳川忠長も家臣を手討ちにしたという理由で、甲府に蟄居になる。こうして江戸を中心とした政権がようやく確立し、太平の世が訪れるのだが、それでも江戸幕府にとって駿府は油断のならない土地だと思われていたようだ。というのも、家康の整備した当時の駿府の城下町は、幕府のある江戸とほぼ同じ規模の町だったからである。いつ駿府で決起が起こって攻め込まれるか分からない。そのためには江戸と駿府の往来を厳格に監視し、規制する必要がある。箱根の関で「入鉄砲出女」のような人見改めが行われ、江戸城下に暗君・徳川忠長の悪行の風説が流れたのも、関東の住民を西に行かせまいとする幕府側の方便であると考えると分かりやすい。徳川忠長の悪行というのは、忠長が家臣を手討ちにしたという事実を膨らませて、駿河浅間社の神獣であった野猿を徹底的に斬殺したり、江戸に来て辻斬りをしているといった噂のことである。南條範夫の『駿河城御前試合』(1964)は、家光が江戸城で、武道の達人たちを対決させたのに対抗して、忠長が駿府城で真剣の対決をさせたという話だが、恐らくそれに類した噂もあったのではないか。こうした噂は、明らかに、箱根の関から向こうは、人の法の及ばぬところ、何が起こっても不思議ではない恐ろしいところという印象を植え付けようとしている。

一方、寛永年間(1624年-45年)から150年後の文化・文政期になると、箱根の関を超えてあえて異界に行ってみたいという機運が高まることになる。先に述べた富士講の富士行人はその一例だし、『東海道中膝栗毛』や各地の名所図会が出版され、旅情が誘われたのもこの時期である。こうした江戸庶民の感情が、人の道理の通らない危険なところ、しかしだからこそあえて行ってみたい所という静岡像を定着させたのである。そしてこの地域的オリエンタリズムともいうべき視点こそ、SFやサブカルチャーに出てくる「静岡」を理解するための重要な視点なのである。例えば、しりあがり寿は『膝栗毛』に着想を得た『弥次喜多in Deep』(2000-2003)の中で、箱根から向こうは人の道理の通らないところという設定を利用しながら、弥次さん喜多さんを精神の迷路に迷い込ませ、人間のアイデンティティーを探る旅へと向かわせている。これなども、道理の通らない異界という先入見を内面に折り返すことで、うまく利用した秀逸な例と言えよう。もちろん先に述べた富士山をバックにして暴れる怪獣というイメージも、そうした静岡の異界性を強調したものとみなせるはずである。

最後にもう一度『エヴァンゲリオン』の話に戻りたい。『エヴァ』の使徒が、ウルトラマンなどに出てくる怪獣をモデルにしたものであることはすでに述べたが、使徒と怪獣とでは大きな違いがある。それはウルトラマンに出てくる「怪獣」が、生物の姿をきちんと残して現れるのに対して、エヴァの「使徒」は、ほとんど抽象的で幾何学的な図形として登場するところである(もちろん例外はあるが)。これは何を意味しているのだろうか。

『新世紀エヴァンゲリオン』を監督した庵野秀明は、エヴァを作った当時、すでにスーパーロボット・アニメは時代遅れだという旨の発言をしていたように思う。この発言がどういう文脈でなされたのか、すでに忘れてしまったが、その意識は、「抽象化された怪獣」の表現にも現れている。ある意味、ウルトラマンが怪獣をやっつける――この場合は、マジンガーZが機械獣を倒す例の方が適切かもしれないが――物語構造は、端的に言って、近代の科学的・合理的思想が、土俗的な迷妄を打ち破るという啓蒙主義的な発想のうえに成り立っている。しかしこの物語構造が成立するには、その前提として土俗的な迷妄の世界が、リアルな形で存在していなければならない。そうした観点から見たとき、庵野による「怪獣の抽象化」は、土俗的な精神世界が消えつつあることの象徴のように見えるし、「スーパーロボット・アニメは時代遅れ」という発言は、近代科学が打ち破るべき迷妄(敵)を失ったことを意味しているようにもみえる。さらに言えば、迷妄が解かれてしまった現代社会の中で、人々の科学に対する関心は、フィクションという媒介を通さず直接、科学的知見を獲得することに向かっている。昨今の数学ブームなどはまさにそれだろう。

啓蒙主義的な作品構造が成立しなくなり、科学的な関心が直接、科学的な知見を求めることへと向かう中で、あえてフィクションという要素を媒介させる積極的で説得的な意義が、今のSFには問われている。SFに現れた「静岡」を考えることは、そうした意義を考える格好のモデル・ケースとなるように思うのだが、どうだろうか。(関竜司)

(参考文献)
五来重『山の宗教』、角川ソフィア文庫、2008年
宮田登「諸国の富士と巨人伝説」、『正月とハレの日の民俗学』、大和書房、1997年
柳田國男「ダイダラ坊の足跡」、『定本柳田國男全集』第五巻、筑摩書房、1962年
『静岡県史』(通史編3近世一)、静岡県、1996年