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(コミック、2004年~2008年まで連載、全15巻、講談社ヤンマガKC、別巻『赤灯えれじい 東京物語』(2009年)。また、プラチナコミック版(コンビニコミック)として再発中(2011年6月~))


赤灯えれじい(1) (ヤングマガジンコミックス)


 「ボンクラ!」「ボケ!」「死ね!」「チンカス!」

 きらたかしのコミック『赤灯えれじい』(全15巻、講談社ヤンマガKC)の頁を繰った読者がまず目にするのは、夜勤者として交通誘導業務を行なうガードマンである主人公が、いかにもガラの悪そうなトラックの運転手や、苛立つタクシードライバーから投げつけられる種々の罵倒である。

 主人公サトシは「高校を卒業して1年プータロー生活」を余儀なくされているフリーターだ。生活費を稼ぐため連日出かける警備の夜勤アルバイトは決して楽なものではない。朝日が差し込む頃に帰宅して仮眠を取り、しばらく経つとまた夜勤業務が始まる。ガードマンのアルバイトに学歴制限も年齢制限もあってないようなものだが、そのぶん薄給で重労働(会社はサトシを「隊長」に任じても昇給はさせない)、ゆえに生活に余裕など生まれそうにない。特に冬場は体力的にきつく、「ももひきを二枚重ね着」してもなお凍えるほどの骨身に沁みる寒さのなか、労働者は一晩中の立哨を余儀なくされる。

 こうしたガードマンの現場におけるリアリティが、『赤灯えれじい』では極めて綿密に描出されている(*1)。とはいえ、『赤灯えれじい』はガードマンの「日常」を描くことそのものを主題とした作品ではない。ここで描き出される日常は、ある志向性を明確に帯びている。それは、社会人として一歩ずつ成長しようと、がむしゃらにもがくサトシの姿からも明らかだ。

 『赤灯えれじい』の語り口(ナラティヴ)の大部分はサトシの視点からのものである(ただし、サトシがいないシーンではもう一人の主人公・チーコの視点が往々にして採用される)。「ヘタレ」で「童貞」のサトシが、いかにして泥沼の日常に光明を見出し、暇な現場を割り当てられたガードマンが余儀なくされるような「時間潰し」の感覚から脱していくのか。そしてサトシは自らの実存を、いったい何に「投企」(サルトル)すべきと判断するのか。

 『赤灯えれじい』においては、金髪でガラが悪く、でも美しい「元ヤンキー」の20歳・チーコに惚れてしまったことが、劇的な変化のきっかけとして提示される。ただし誤解を恐れず言えば、『赤灯えれじい』は「同棲漫画」ではあっても「恋愛漫画」ではない。甘酸っぱい恋愛を主軸とするにしては、二人はあまりにも早く相思相愛となり、あまりにも早く、精神的にも肉体的にも結ばれてしまう。傍目には「釣り合わない」と言われ続けるサトシとチーコだが、チーコは早くから(それこそ単行本の1〜2巻時点で)サトシの篤実な人柄を見抜いており、12巻で告白される過ちをふまえてもなお、サトシを裏切ることはない。

 『赤灯えれじい』で恋愛成就のジレンマに代わって描かれるのは、サトシの緩やかな成長の過程だ。二人は互いに、貪るようなセックスを繰り返す。ともすると、そうした無軌道に互いを貪る行為こそが「若さ」なのかもしれないが、そこにはプラトンが『饗宴』で描き出したような、失われた半身を求めるがごとき執着が確実にある(現に、破局の危機が何度訪れようとも、あるいはいかなる誘因があろうとも、サトシは決してチーコを裏切らない)。そして十年一日の如き泥沼から、チーコとともに暮らす日常はひとつの目標を持った長い道程へと形を変え、物語の結末において、それまで「弟」のようにチーコへ依存していたサトシは、文字通りチーコを「背負う」存在としてまで成長を遂げたことが示される。

 15巻に及ぶ単行本の頁を繰り終えた者が何よりも印象づけられるのは、3年にわたるサトシとチーコの生活が描写の極め細やか、特に同棲生活をめぐる逸話の秀逸さだろう。トイレを使った後、(臭いを気にして)「待って 15分」と言うところから、ワンルームに二人という狭い環境にいるせいで配線コードに足をひっかけてしまうところまで、具体例を持ち出すと暇がない。「神は細部に宿る」という言葉を体現するかのようなその眼差しと筆遣いは、近代日本文学の作法を継承した現代小説の多数よりも、若者が強いられている現実を説得的に切り取ることに成功している。そこでは彼らの生活が「物語」の類型で処理されることを、巧妙に避ける戦略がある。

 マルクス主義の方法論でコミック批評を手がける紙屋高雪は、ベストセラー『電車男』と対比させながら「潰れかかった零細な町工場」であるチーコの実家にヤクザが押しかける様子を一例とすることで、『赤灯えれじい』における登場人物の家庭環境の描かれ方に目を向ける。紙屋は「この二人のフリーターの恋は、とてもリアルな貧困のなかで育まれる」と述べているが(*2)、何よりもこの、「貧困」からまったく目を背けないという点において、『赤灯えれじい』の表現は、とりわけ2000年代に猖獗を極めた「まんが・アニメ的リアリズム」(大塚英志)とはまったく異なる表現の可能性を切り拓くことに成功している。

 しかし読み違えてはならないのは、『赤灯えれじい』の方法論が、貧困を極端に戯画化することで、それをひとつのイデオロギーに仕立て上げる行為を注意深く避けていることだ。『赤灯えれじい』で描かれる貧困がリアルなのは、それが日常生活へ完全に浸透しているからにほかならない。『赤灯えれじい』の登場人物は、皆、完全に貧困へ慣らされてしまっている。その意味で、『赤灯えれじい』の方法論は、イデオロギーを鼓舞する読まれ方が往々にしてなされる『蟹工船』よりもむしろ、貧困が人々を統御するシステムとして、完全に浸透した社会を戯画の枠を越えて描き出すトマス・ディッシュの『334』に照応を見せるだろう(*3)。

 さて、サトシとチーコの「その後」を描いた別巻『赤灯えれじい 東京物語』は、本編に続く「真の結末」が描かれている。その内容はご自身の目で確認いただくとして、そのほかにも、同書の末尾には、ちばてつや賞を受賞し、その後『赤灯えれじい』が連載される契機となった読み切り版が収められている(*4)。この読み切り版において、貧困をめぐる表現はいっそう苛烈なものとなっている。だがその苛烈さは、一方において、極めて禁欲的な表現でもある。詳しく見ていこう。

 読み切り版において「親の借金を毎月8万円ずつ返している」2歳年上のチーコと同棲生活を送っているサトシ(「もうじき21歳」)は、「そろそろ男としてケジメつけないかん そのためにもまずは就職」と、会社の面接の前日にもかかわらず夜勤に入るような境遇であり、ルート配送ドライバーの仕事をしているチーコとは生活時間帯が異なるため、日々、すれ違いの生活を送っている。

 しかしサトシが面接予定だった「健康器具販売会社」はいきなり倒産し、サトシが今の生活から抜け出すメドは立ち消えてしまう……。こうした読み切り版の設定および描写は、後の連載版よりもいっそうえげつない。特にチーコの実家の工場の泥臭さは、掲載媒体が「ヤングマガジン」ではなく「ガロ」でもおかしくないのではないかと早合点したくなるくらいだ(*5)。そして、サトシとチーコの二人は、連載版よりもはるかに大人びた描かれ方をしている。おそらく読者は読み切り版のサトシとチーコの年齢が、あと10〜20歳上だったとしても、この光景をリアルなものとして受け入れることができるだろう。こうした貧困をめぐるリアリティの担保があるからこそ、読み切り版のラストは読み手に静かな感動を呼ぶ。残念ながら彼らは、とうぶん現在の境遇から抜け出せそうにない。にもかかわらず、彼らは互い罵り合い、殴り合い、そのことで、知らず、互いに支え合っていることに気づくのだ。

 『赤灯えれじい』の全巻を読み終えた読者であれば例外なく、2000頁に及ぶ『赤灯えれじい』のエッセンスが、この読み切り版に凝縮されていたことを感じ取るだろう。逆の言い方をすれば、連載版『赤灯えれじい』は、読み切り版に込められた主題を、さらに拡大して描き直したものにほかならない。そして、きらたかしはサトシとチーコの日常を描き直すことで、彼らにとっての出口を模索したのだ。

 連載版『赤灯えれじい』は大阪東部を舞台にしているが、物語の転機においては、バイクを通した「旅」のモチーフが登場する。その「旅」の模様が最初にダイレクトに描かれるのが、サトシの20歳の誕生日を前にして、二人が1週間仕事を休んで行なった「原チャリ」での旅である(4巻)。

 夜はラブホテルや健康ランドを泊まり歩き、昼は海水浴場で楽しいひとときを過ごす彼らだったが、飛び出してきたダンプカーにサトシが轢かれそうになり、怒ったチーコがガラの悪い運転手に頭突きを食らわし喧嘩になった挙句、「事務所」からの応援を振りきって逃げ出した結果、原チャリが「ガス欠」となり、夜の山中を徒歩で行軍することとなる。この際、二人は初めて互いの心中を吐露し合い、互いの真情を垣間見る。むろん、そこに思弁性はまったく介在しない。彼らは世界を歩く生活者であって、哲学者ではなく、それゆえ世界を外部から眺めることがないからだ。二人が告白するのは欠落を埋めるための、孤独感の表明にすぎない。しかし孤独感を共有した結果として、彼らは「一緒に住もう」と、互いを支え合うことを決意する。二人はひしと抱き合ったまま朝を迎えるが、ここで、二人を祝福するがごとき装いで現れるのが、ほかならぬ富士山なのである。

 富士山を眼にしたチーコはゲラゲラと笑い転げ、「すごいなあ〜」とサトシは感嘆する。そうして二人は富士山に感銘を受け、金剛杖を片手に頂上まで踏破することになるのだが、この場面は、太宰治が富士山を評して述べた「人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。全身のネヂが、他愛なくゆるんで、之はをかしな言ひかたであるが、帯紐(おびひも)といて笑ふといつたやうな感じである。諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢つて、君の完全のたのもしさを、全身に浴びてゐるのだ。」(富嶽百景)という一節を想起させる(*6)。

 太宰の短編小説「富嶽百景」が、山梨県側から見た「裏富士」であることを鑑みると、(『赤色エレジー』の影響色濃い)『赤灯えれじい』で描かれる富士山という形象は、生活破綻者であった太宰が一縷の希望とアイロニーをない交ぜにして書き付けた記述とある段階まで一致しながらも、最終的には中心を挟んで正反対に置かれるべきものだろう。しかし守口、あるいは徳庵といった東大阪を主とした舞台とした『赤灯えれじい』が「静岡」とダイレクトに交錯する点はやはり、この富士山という形象の機能性にほかならない。

 作中において富士山が再度登場するのは、旅行先の淡路島で思い切ってプロポーズをしたサトシが、「結婚て…考えたこともないから…」とやんわりとチーコに断られてしまい、そのショックから不能になってしまった直後、チーコが長距離ドライバーの運転手になる夢の実現の第一歩として、先輩ドライバーの手伝いをした際のことである(9巻)。

 『赤灯えれじい 東京物語』に収録されたチーコの中学生時代を描いた短篇「いもうと」において「どっか行きたい…遠いとこ…」と語られるが、『赤灯えれじい』におけるチーコの決断は、「旅」を経て己を見つめ直すことが重要な下準備となっている。むろん、チーコは太宰のような屈折した自意識はないし、思弁へ過剰に淫することもない。しかし、明確な言語化は伴わずとも、彼女は「旅」を通して自らを見つめ直し、そのことで一歩一歩、生活者として成熟していく。

 「結婚」のモチーフと「旅」のモチーフは、『赤灯えれじい』のクライマックスを描いた14巻と15巻での新潟旅行、そして『赤灯えれじい 東京物語』でひとつのピークに達するのだが、二度目の富士山は——「楽しい同棲生活」が停滞期に入り、やがて疑心暗鬼から破局に至る悲劇を、彼らが回避するだろうという——予兆として、重要な役割を果たしている。

 「富嶽百景」のクライマックスにおいて、「冬の外套着た、タイピストでもあらうか、若い知的の娘さんがふたり」語り手のもとにやってきて、「相すみません。シャッタア切つて下さいな。」との依頼を行なう場面がある。語り手は「ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして」その偉容を撮影するのであるが、ここで語り手が「富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。」とその偉容を収めることで、寂寥とともに日々の生活へ帰ることが予告される。この「富嶽百景」における富士山の機能は、「往きて還りし物語」(トールキン)という物語構造が、『赤灯えれじい』へ見事に引き継がれていると見ることもできるだろう。言い換えれば、『赤灯えれじい』は「静岡」の象徴である富士山と出逢うことによって、作中へ出口という名の「外部」を導き出すことに成功したのである。

 そして『赤灯えれじい』というテクストは、労働と相互依存を経ながら何気ない日常を必死に生き抜く現実こそが、ひとつのセンス・オヴ・ワンダーだということを突きつけた。巽孝之は、それまで「サイエンス・フィクションを読む」行為に収斂されたSF批評の原理を、「八〇年代に〈未来〉という隠喩がはぎとられ、文字どおり〈現在〉小説としてのサイエンス・フィクションが暴露」されたという「言説空間の変容を前提とし、むしろ「読むことのサイエンス・フィクション」という形でSFの定義の原理的な更新をはかった(「サイエンス」と「フィクション」の世紀末)(*7)が、一方の『赤灯えれじい』が、作者であるきらたかし自身「時代設定は現代に合わせてるし、(物語の中に)ふつうに携帯なども登場するんですが、読んでいると現代よりももっと前、バブルよりももっと前くらいに感じられてしまうんです。」と述べているように、ともすればそのリアリズムは過剰なまでに八〇年代的だ。しかし私たちはサイバーパンクを「現在」と読んできたことと同じように、『赤灯えれじい』のリアリズムをも、「現在」を描いた「読むことのサイエンス・フィクション」として理解する必要があるのではないだろうか。

 言い換えれば、今までSFが見て見ぬふりをしてきた類のリアリズムが『赤灯えれじい』では提示されているのだ。このリアリティから目を背けず、作中にてそれを超克すること。創作にあたっても、あるいは鑑賞においても、現代SFに不可欠なのはおそらくかような視点であり、それがなければ、トマス・ディッシュはもとより、新しい経済体制が重要な役目を果たす『ねじまき少女』のパオロ・バチガルピが何を描き出そうとしたのか、正しく理解することはかなわないだろう。(岡和田晃)

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【脚注】
(*1)書評家のスズキトモユによる「きらたかしインタビュー(第1回)」では、このリアリズムに作者自身の経験が投影されていることが話題となっている
http://blog.excite.co.jp/mangaword/5454536)。

(*2)「紙屋研究所」(http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/sekitou-elegy.html)を参照のこと。

(*3)『蟹工船』と『334』の対比については、拙稿「『蟹工船』の次はトマス・ディッシュの『334』を読もう(http://speculativejapan.net/?p=61)を参照のこと。

(*4)読み切り版『赤灯えれじい』については、前述したスズキトモユのサイトが参考になる(
http://mangaword.exblog.jp/5636847/)。

(*5)「ガロ」掲載にしては前衛性が不足しているとも取れるが、『赤灯えれじい』は「ガロ」に連載された林静一の『赤色エレジー』を下敷きにしており、作中には『赤色エレジー』の主人公カップルのオマージュとおぼしき人物たちも登場することからもわかるとおり、その影響は色濃く、実質的な後継作と見ることもできるだろう。

(*6)「富嶽百景」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
)は現在、青空文庫で読むことができる。

(*7)巽孝之『現代SFのレトリック』(岩波書店)所収。