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(アフタヌーンKC)

天狗とは、三界に家なく自在に飛行するものだ

人であった居所から去った者の名だ

人の世より見るときは天狗とはいなくなった者なのだ

G・K・チェスタトンは、江戸川乱歩も激賞した有名な短編『見えない男』の中で、時代を超えて色褪せることの無い教訓をぼくたちに伝えてくれている。すなわち、「身近にあって慣れ親しんでいるものほど、習慣に目隠しされて、注意のまなざしから逃れてしまう」という普遍的真理だ。けれども、サイエンス・フィクションというのは、その反対に、身近であるからこそ忘却されている何ごとかに光を当てようとする挑戦のことを言うのだと思う。だから、黒田硫黄の最初の長編連載作品『大日本天狗党絵詞』は、使い古されて見向きもされなくなっていたにもかかわらず、なお実り豊かな可能性を秘めていた「天狗」というテーマを、それまで誰も思いつかなかった方法で見事に料理するというその発想の妙だけで、素晴らしいSF漫画になる運命を最初から約束されていたと言える。

本作の主人公シノブは、小学校の入学式から逃げ出して、満開の桜の木の上で新聞を読んでいた天狗の「師匠」に声をかけられる。そのまま彼について行くことを選んだシノブだったけれど、天狗の現実とは、どこにも居場所がないまま放浪を続け、ゴミ箱を漁って食料を確保しながら、日々をただ漫然と過ごすだけの生活だった。天狗としての生き方にも馴染めず、シノブの足は自然と、一度は捨てた我が家へと向かう。ところが、そこにも彼女の居場所はなかった。行方不明になったはずの自分の代わりに「しのぶ」を名乗って、家族の一員として暮らしている存在が家の中にいたからだ。シノブを追いかけてきた「師匠」は、彼女の生まれ育った家にいる「しのぶ」が自分の送り込んだ泥人形であると教え、続いてこんなことを言う。「おまえの家はおまえの家でなく、この都市も我々の都市ではない」、「だがこの空は我々のものだ」、「そしてもうお前のものだ」。

どこか特定の場所に所属することに馴染めず、どうしても逸脱してしまう人間の感じるあてどなさは、黒田硫黄が繰り返し描くテーマのひとつだ。シノブは、我が家へ帰ろうとしたり、「師匠」に認められようとして天狗の活動に邁進しようとしたり、どこか別の土地に逃げて新しく人生をやり直そうとしたりするのだけれど、その都度、他人に拒まれたり、トラブルに巻き込まれたり、自分から後ずさりしたりするせいで、結局は宙ぶらりんの状態でいることを止められない。作中でシノブがぽつりとつぶやくように、彼女が欲しいものは「ないもの」だ。つまり、シノブは自分自身の望みからさえも、はみ出してしまうのだ。

居場所を持たない存在は、自分自身からさえズレていく。それが「天狗」である。作中で、天狗たちは、「ただ食って寝るだけ」のみじめな生活から脱却して天狗としての矜持を取り戻すため、天狗たちの国をつくるべく結集する。しかし、どこにも居場所を持たないはずの者たちが、居場所を求めるという事態には、大きな矛盾がありはしないか。天狗たちは、まさに「天狗」として生きようとするせいで、天狗ではない何か別のものへとどんどん変質していく。なぜなら、天狗のイデアとは、やっぱり「ないもの」なのだから。けれども、そんな「天狗のイデア」が受肉した存在として、日本を滅ぼすほどの力を秘めた大天狗「Z氏」というキャラクターが作中に登場する。この「Z氏」を捜索して、シノブや、天狗たちや、いろいろな勢力の思惑が入り乱れる場所が、伊豆の「下戸温泉」なのである。

『大日本天狗党絵詞』という物語は、大きく見て、天狗たちが伊豆の町で「Z氏」を探し当てるまでの前半部と、「Z氏」の力によって東京に天狗の国をつくろうとする後半部とに二分できる。言い換えると、この漫画のかなりの部分には、伊豆の温泉街の風景が、それも、とても緻密に描き込まれている。これはじっさいに本を手に取って確かめていただきたいのだけれども、この時期の黒田硫黄は、線の太い筆を多用する傾向にあるので、画面は全体的に黒っぽく塗り込められて、重たい印象を受ける。だからこそ、物語の最後の最後、わずか七頁ほどのあいだ、画面の背景が白地に転じるとき、そこには静かな開放感が生まれる。それは、天狗の「空」がほんの一瞬だけ垣間見える時間なのである。シノブの視線は、天を見上げるわけでもなく、地べたを見下ろすわけでもなく、その中間であいまいに揺れる。ひとつの生き方を選ぶとは、他の生き方を諦めるということだ。だから、どんな生き方も選べないシノブの存在は、ぼくたちにとって、最も身近でありながら、最も見捨てられ、忘却されてしまった何かに他ならない。何を見ることも、読者とまなざしを交わすことも拒む最後の頁のシノブの顔は、それでも、誰からも見えない存在の寂しさを、見事に可視化しているのだ。

(横道仁志)