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                             (双葉社・1980年12月10日発行)

  主人公、伊一郎は作家志望の大学生である。彼が書こうとしているのは「今をときめく、あのエスエフ」(12頁)だ。この作品が書かれた1980年当時、SF専門誌は5誌あった。伊一郎は「SF作家の登竜門」である某誌の新人コンクールに応募しようとしている。だが、締め切りは目前だというのに、原稿用紙の「枡目は黒くならない」(13頁)。どうにも アイディアが浮かばないのだ。
   伊一郎はヤケクソで言い放つ。
「もし、日本が明治維新にしくじっていたとすれば――なんてね」(14頁)
 そして、同棲中の「伊一郎にはもったいないような美人」(11頁)のどかと共に、「明治維新が失敗し、徳川の封建政治のもと、それなりに近代化されて二十世紀を迎えた日本」(23頁)に迷い込む。そこで2人は追われる身となる。反体制勢力の指導者、幻姫とのどかが「似ているどころか、瓜ふたつ」(28頁)だからである。
 さて、その幻姫の正体は…? 
 それは最後に明らかになるのだが、「もうひとつのニッポン」において、伊一郎たちがまず目指すのは、静岡県…熱海である。
「姫君は熱海でお待ちです」(41頁)
 たどりついた熱海は、姫之沢公園、熱海ビーチライン、轟音をお共に走り抜ける新幹線も、我々の世界のままである。熱海グランドホテル、つるやホテル、そして、お宮の松まであるのだ。また、奇襲にあった幻姫を助けるための抜け穴は「廃業した大旅館」来の宮ホテル(44頁)にある。
 限りなく現実の熱海に近いもう一つの熱海において、互いの術を尽くした戦闘がくりひろげられる。そう、これは「忍者もの」なのである! 作者・辻真先は、この本の「あとがき」で、「ニンジュツ、と聞いただけで胸がわくわくしました」と、忍者ものにふけった自らの読書体験を語っている。
 それにしても、神は細部に宿る…ではないが、この作品内の「熱海」は、ディテールがいちいち具体的である。 それもそのはず、作者・辻真先の仕事場は熱海にあるのだ。
 日本SF作家クラブ公認ネットマガジンPWのインタビューhttp://prologuewave.com/archives/748#extendedでお目にかかったとき、「どうして熱海を仕事場としてお選びになったんですか?」と尋ねてみた。
「40年近く前、熱海に老人用マンションを買ったんです。おやじに『どうせ、国は何もしてくれないし、歳をとることは間違いないから』と言って。で、両親を見送った後、空けておくのももったいない。仕事場にするには、いくつか条件があってね、『飛行機で行かなくと済むところ・なるべくなら汽車で行けるところ・本屋、映画館のあるところ』……で、十数年間、この条件のすべてを満たす地ということで、松本にアパートを借りていたんです。熱海は最後の条件『本屋と映画館』ということでは難があったんですが、インターネットの普及でそれはクリアされました」
 なるほど……とも思うが、そもそも最初の時点でなぜ熱海が選ばれたのだろうか?
 明治維新後、近代都市東京の奥座敷として発展してきた熱海。その意味では、近代の矛盾の吹きだまる場所でもある。お宮の松を名所とした『金色夜叉』において描かれたのも、男は学歴と財力、女は容貌で序列化されるという新しい世の中における悲劇であった。
   日本はこうなるしかなかったのか? 
   「もうひとつの歴史」を描く物語には、常に痛恨の思いがこもる。
   幻姫も「こうではなかった可能性」へのこだわりが生み出したものだった。
   温泉地・熱海は、そういった痛恨の思いをプールし、浄化するための土地でもある。
   我々はどこから来たのか? 我々は何か? 我々はどこへ行くのか?
   フォルムの定まらない世界で自己を確立しなければならないキツさを知ればこそ、子どもたちはTVアニメに夢中になった。「大きな物語の崩壊を、サブカルチャーの物語をフェイクと知りつつのめりこむことによって、しのごう」(大澤真幸)としたのが、宮野の世代である。その世代も不惑をとっくに越えた。
   自らの見てきたTVアニメの脚本の多くが辻真先によるものであることを知り、振りかえると、通奏低音のように貫く「痛恨の思い」に気がつく。
   この作品のヒロインのどかは、「SFは大好きで、一再ならず各地のSF大会に顔を出している。おかげで、大半のSF作家を見知っている」(12頁)。
   SF大会は年に一度の祭りである。
   そして、祭りもまた、浄化のためのシステムであることは言うまでもない。
                              (宮野由梨香)