» 2011 » 6月のブログ記事

(アフタヌーンKC)

天狗とは、三界に家なく自在に飛行するものだ

人であった居所から去った者の名だ

人の世より見るときは天狗とはいなくなった者なのだ

G・K・チェスタトンは、江戸川乱歩も激賞した有名な短編『見えない男』の中で、時代を超えて色褪せることの無い教訓をぼくたちに伝えてくれている。すなわち、「身近にあって慣れ親しんでいるものほど、習慣に目隠しされて、注意のまなざしから逃れてしまう」という普遍的真理だ。けれども、サイエンス・フィクションというのは、その反対に、身近であるからこそ忘却されている何ごとかに光を当てようとする挑戦のことを言うのだと思う。だから、黒田硫黄の最初の長編連載作品『大日本天狗党絵詞』は、使い古されて見向きもされなくなっていたにもかかわらず、なお実り豊かな可能性を秘めていた「天狗」というテーマを、それまで誰も思いつかなかった方法で見事に料理するというその発想の妙だけで、素晴らしいSF漫画になる運命を最初から約束されていたと言える。

本作の主人公シノブは、小学校の入学式から逃げ出して、満開の桜の木の上で新聞を読んでいた天狗の「師匠」に声をかけられる。そのまま彼について行くことを選んだシノブだったけれど、天狗の現実とは、どこにも居場所がないまま放浪を続け、ゴミ箱を漁って食料を確保しながら、日々をただ漫然と過ごすだけの生活だった。天狗としての生き方にも馴染めず、シノブの足は自然と、一度は捨てた我が家へと向かう。ところが、そこにも彼女の居場所はなかった。行方不明になったはずの自分の代わりに「しのぶ」を名乗って、家族の一員として暮らしている存在が家の中にいたからだ。シノブを追いかけてきた「師匠」は、彼女の生まれ育った家にいる「しのぶ」が自分の送り込んだ泥人形であると教え、続いてこんなことを言う。「おまえの家はおまえの家でなく、この都市も我々の都市ではない」、「だがこの空は我々のものだ」、「そしてもうお前のものだ」。

どこか特定の場所に所属することに馴染めず、どうしても逸脱してしまう人間の感じるあてどなさは、黒田硫黄が繰り返し描くテーマのひとつだ。シノブは、我が家へ帰ろうとしたり、「師匠」に認められようとして天狗の活動に邁進しようとしたり、どこか別の土地に逃げて新しく人生をやり直そうとしたりするのだけれど、その都度、他人に拒まれたり、トラブルに巻き込まれたり、自分から後ずさりしたりするせいで、結局は宙ぶらりんの状態でいることを止められない。作中でシノブがぽつりとつぶやくように、彼女が欲しいものは「ないもの」だ。つまり、シノブは自分自身の望みからさえも、はみ出してしまうのだ。

居場所を持たない存在は、自分自身からさえズレていく。それが「天狗」である。作中で、天狗たちは、「ただ食って寝るだけ」のみじめな生活から脱却して天狗としての矜持を取り戻すため、天狗たちの国をつくるべく結集する。しかし、どこにも居場所を持たないはずの者たちが、居場所を求めるという事態には、大きな矛盾がありはしないか。天狗たちは、まさに「天狗」として生きようとするせいで、天狗ではない何か別のものへとどんどん変質していく。なぜなら、天狗のイデアとは、やっぱり「ないもの」なのだから。けれども、そんな「天狗のイデア」が受肉した存在として、日本を滅ぼすほどの力を秘めた大天狗「Z氏」というキャラクターが作中に登場する。この「Z氏」を捜索して、シノブや、天狗たちや、いろいろな勢力の思惑が入り乱れる場所が、伊豆の「下戸温泉」なのである。

『大日本天狗党絵詞』という物語は、大きく見て、天狗たちが伊豆の町で「Z氏」を探し当てるまでの前半部と、「Z氏」の力によって東京に天狗の国をつくろうとする後半部とに二分できる。言い換えると、この漫画のかなりの部分には、伊豆の温泉街の風景が、それも、とても緻密に描き込まれている。これはじっさいに本を手に取って確かめていただきたいのだけれども、この時期の黒田硫黄は、線の太い筆を多用する傾向にあるので、画面は全体的に黒っぽく塗り込められて、重たい印象を受ける。だからこそ、物語の最後の最後、わずか七頁ほどのあいだ、画面の背景が白地に転じるとき、そこには静かな開放感が生まれる。それは、天狗の「空」がほんの一瞬だけ垣間見える時間なのである。シノブの視線は、天を見上げるわけでもなく、地べたを見下ろすわけでもなく、その中間であいまいに揺れる。ひとつの生き方を選ぶとは、他の生き方を諦めるということだ。だから、どんな生き方も選べないシノブの存在は、ぼくたちにとって、最も身近でありながら、最も見捨てられ、忘却されてしまった何かに他ならない。何を見ることも、読者とまなざしを交わすことも拒む最後の頁のシノブの顔は、それでも、誰からも見えない存在の寂しさを、見事に可視化しているのだ。

(横道仁志)

                             (双葉社・1980年12月10日発行)

  主人公、伊一郎は作家志望の大学生である。彼が書こうとしているのは「今をときめく、あのエスエフ」(12頁)だ。この作品が書かれた1980年当時、SF専門誌は5誌あった。伊一郎は「SF作家の登竜門」である某誌の新人コンクールに応募しようとしている。だが、締め切りは目前だというのに、原稿用紙の「枡目は黒くならない」(13頁)。どうにも アイディアが浮かばないのだ。
   伊一郎はヤケクソで言い放つ。
「もし、日本が明治維新にしくじっていたとすれば――なんてね」(14頁)
 そして、同棲中の「伊一郎にはもったいないような美人」(11頁)のどかと共に、「明治維新が失敗し、徳川の封建政治のもと、それなりに近代化されて二十世紀を迎えた日本」(23頁)に迷い込む。そこで2人は追われる身となる。反体制勢力の指導者、幻姫とのどかが「似ているどころか、瓜ふたつ」(28頁)だからである。
 さて、その幻姫の正体は…? 
 それは最後に明らかになるのだが、「もうひとつのニッポン」において、伊一郎たちがまず目指すのは、静岡県…熱海である。
「姫君は熱海でお待ちです」(41頁)
 たどりついた熱海は、姫之沢公園、熱海ビーチライン、轟音をお共に走り抜ける新幹線も、我々の世界のままである。熱海グランドホテル、つるやホテル、そして、お宮の松まであるのだ。また、奇襲にあった幻姫を助けるための抜け穴は「廃業した大旅館」来の宮ホテル(44頁)にある。
 限りなく現実の熱海に近いもう一つの熱海において、互いの術を尽くした戦闘がくりひろげられる。そう、これは「忍者もの」なのである! 作者・辻真先は、この本の「あとがき」で、「ニンジュツ、と聞いただけで胸がわくわくしました」と、忍者ものにふけった自らの読書体験を語っている。
 それにしても、神は細部に宿る…ではないが、この作品内の「熱海」は、ディテールがいちいち具体的である。 それもそのはず、作者・辻真先の仕事場は熱海にあるのだ。
 日本SF作家クラブ公認ネットマガジンPWのインタビューhttp://prologuewave.com/archives/748#extendedでお目にかかったとき、「どうして熱海を仕事場としてお選びになったんですか?」と尋ねてみた。
「40年近く前、熱海に老人用マンションを買ったんです。おやじに『どうせ、国は何もしてくれないし、歳をとることは間違いないから』と言って。で、両親を見送った後、空けておくのももったいない。仕事場にするには、いくつか条件があってね、『飛行機で行かなくと済むところ・なるべくなら汽車で行けるところ・本屋、映画館のあるところ』……で、十数年間、この条件のすべてを満たす地ということで、松本にアパートを借りていたんです。熱海は最後の条件『本屋と映画館』ということでは難があったんですが、インターネットの普及でそれはクリアされました」
 なるほど……とも思うが、そもそも最初の時点でなぜ熱海が選ばれたのだろうか?
 明治維新後、近代都市東京の奥座敷として発展してきた熱海。その意味では、近代の矛盾の吹きだまる場所でもある。お宮の松を名所とした『金色夜叉』において描かれたのも、男は学歴と財力、女は容貌で序列化されるという新しい世の中における悲劇であった。
   日本はこうなるしかなかったのか? 
   「もうひとつの歴史」を描く物語には、常に痛恨の思いがこもる。
   幻姫も「こうではなかった可能性」へのこだわりが生み出したものだった。
   温泉地・熱海は、そういった痛恨の思いをプールし、浄化するための土地でもある。
   我々はどこから来たのか? 我々は何か? 我々はどこへ行くのか?
   フォルムの定まらない世界で自己を確立しなければならないキツさを知ればこそ、子どもたちはTVアニメに夢中になった。「大きな物語の崩壊を、サブカルチャーの物語をフェイクと知りつつのめりこむことによって、しのごう」(大澤真幸)としたのが、宮野の世代である。その世代も不惑をとっくに越えた。
   自らの見てきたTVアニメの脚本の多くが辻真先によるものであることを知り、振りかえると、通奏低音のように貫く「痛恨の思い」に気がつく。
   この作品のヒロインのどかは、「SFは大好きで、一再ならず各地のSF大会に顔を出している。おかげで、大半のSF作家を見知っている」(12頁)。
   SF大会は年に一度の祭りである。
   そして、祭りもまた、浄化のためのシステムであることは言うまでもない。
                              (宮野由梨香)

杉本 蓮 「KI.DO.U」― 核燃料廃棄物の危険 ― 女性の心の秘密
                                  藤元登四郎

徳間デュアル文庫

 杉本 蓮の「KI.DO.U」(徳間書店、二〇〇〇)は第一回日本SF新人賞の
佳作を受賞した。選考委員の中でこの作品を入選に推薦したのは、小谷真理、大原ま
り子、久美沙織の女性陣であった(「SFジャパン」二〇〇〇年四月、三三五-三三
七頁)。
 「KI.DO.U」は、娘の父親への献身を描いたSFであり、ソフォクレスの
「コロノスのオイディプス」のアンティゴネを想起させる。アンティゴネは、悲劇の
父親と一緒にさすらいの旅に出て、父親が安息の地にいたるまで労苦をともにした。
「KI.DO.U」も同様に、危機に追い込まれた娘と父親を描いているが、「コロ
ノスのオイディプス」とは異なった心理学的構造を持っている。それは、ソフォクレ
スがコロスの観客に語りかけているのに対して、杉本は自分自身に語りかけていると
いう点である。主人公の向原深優姫(みゆき)とその父親の間のコミュニケーション
は、作者の自己完結した世界で行われている。この排他的な過激なやり取りをどう理
解するかは、ただ読者の異性観に関わっている。したがって評価が極端に分かれるの
も当然だろう。
 ところで、「KI.DO.U」は二つのメッセージを持っている。一つは深優姫の
父親に対する願望充足を目指すもの、もう一つは核燃料廃棄物の人類的危険性に関す
るものである。この二つはメビウスの輪のようにつながっている。

 「KI.DO.U」は、深優姫が七つの封印を一つ一つ解いていくことによって展
開される。彼女はイギリスに住んでいたが、二年前に交通事故で死んだはずの父親、
向原周人からのメールを受け取った。そこで指示された通りに東京に戻った。このこ
とは、彼女が、冒頭から父親に盲目的に服従し、進んで苦行の中に身を投じたことを
意味している。
 深優姫が父親からプレゼントとして受け取ったのは、ヒューマン型コンピュータで
あった。これは、父親が彼女を守るために制作し、アマネと名づけた父親の身代わり
であった。碧い髪に緋い瞳、ナルシスのように美貌で、ボクサーのように引き締まっ
た筋肉を備え、さらに生殖能力まで持っていた。しかし、その耐用年数はわずか三年
に過ぎなかった。
 初対面で、深優姫は「私がお前の所有者(マスター)よ」といってたんかを切った。
しかしアマネは、「所有者(マスター)だあ? そんなにマスターベーションをしてー
んなら一人でやれ、ターコ」と、汚い言葉で応じた。アマネは、所有者に従うように
プログラムされていたが、単なるモバイルではなく反抗心があった。これはアマネに
魂があるという証拠であった。アマネは彼女を守るために、襲い掛ってくる正体不明
の敵と全力を挙げて戦った。あまりにも残酷に敵を倒していくので、深優姫にはその
非情さが我慢ならなかった。しかし、アマネがいなかったら、彼女はたちまち殺され
てしまっただろう。アマネは、彼女が生き抜くためには、どうしても必要な存在で
あった。彼女はいつのまに、アマネをモバイルとしてではなく、「汝」として、忍耐
強く話しかけ、教え、自分の願う方向へと導いていった。こうして、父親のプログラ
ムに忠実に沿って封印を解いて進んで行くうちに、彼女は次第に、自分やアマネや父
親の本当のアイデンティティを知ることになった。

 封印が一つ一つ解かれるごとに、深優姫の父親の正体が浮かび上がっていった。向
原は偉大な天才科学者で、評判は悪かったが、彼女に対してだけは、「温かいソ
ファーのような」人物であった。彼は新型の核融合エンジンと核融合発電システムを
開発した。その核融合エンジンを搭載した日本航空宇宙局のシャトルは、地球と火星
の間を往復し巨大な利益を生んだ。しかし、それは大きな問題を抱えていた。
 「どんなに科学が発達しても人間はゴミを捨て続ける。竪穴式住居の昔からそれは
変わらないし、この先宇宙コロニーになっても同じだろう。だが、人間は使用済み核
燃料という厄介なゴミを抱え込んでしまった」(225頁)。埋める土地にも限度があ
るし、海中投棄もできない。そこで日本政府は産業廃棄業者に依頼して、使用済み核
燃料を宇宙に投棄することにしたのであった。しかし、もしそれを満載したシャトル
が飛行中に地球上で事故を起こしたら、どうなるだろうか。
 向原は核融合エンジンを実用化後、何者かに軟禁され、二年前に交通事故で死亡し
た。ところが実際には彼は生きており、八日前に日本国宛に彼の声明文を届けたので
ある。核融合エンジンの制御設計にウィルスを仕掛けたという。そのウィルスが発症
すると、シャトルは富士山麓の樹海に墜落する。そうなるとシャトルはまさに質量爆
弾と化す。
 向原がウィルスを仕掛けたのは、科学を利用して利益だけを追求し、使用済み核燃
料の問題を考慮しない日本政府に対する怒りからであった。ただ、そのウィルスに対
するワクチンは、アマネが持っており、深優姫がそのキイを持っていたのである。ワ
クチンソフトが起動する代わりに、向原の脳波は停止することになっていた。
ここで私が注目するのは、このSFに描かれた核燃料汚染の問題は、福島原子力発電
所の事故を想起させるということである。実際、杉本 蓮は福島成蹊女子高等学校
(現 福島成蹊高等学校)卒業であり、未来に起こる大事件の危険を感じとっていた
ように見える。

 深優姫は医者であったので傷ついたアマネを治療した。助け合いながら危険を潜り
抜け、封印を解くたびに、アマネの心は次第に目覚めていった。それに反応するかの
ように、深優姫がアマネに性的興奮を覚える場面がある。彼女は、包帯だらけで下着
一枚のアマネを見た。アマネがいった。「なんだよ、パンツの中身だって他の奴ので
何回も見てるだろうが。医者で二十五の女が、いまさら恥ずかしがってどーすんだ?
 ヴァージンじゃあるまいし」
 ここで、アマネが初対面でいった言葉、「そんなにマスターベーションをしてーん
なら一人でやれ」の意味がはっきりする。深優姫とアマネの関係は、女の子と指人形
のやり取りのようなものである。女の子は何も知らない人形を、忍耐強く教えて導い
ていくところに喜びを感ずる。ここには人形を通じて、自分を確認する喜び、すなわ
ち自体愛が息づいている。次第にアマネは、人間化され性愛化され真実の愛に目覚め
ていく。深優姫は、アマネの「お前を護るのは、命令だからじゃない」という言葉を
聞いて狂喜した。彼女は人間ではなく、モバイルと恋に陥ったのであった。

 「富士山麓に広がる深緑の海原、樹海」のただ中にある山小屋に、かつて深優姫
は、父親と母親と三人で幸せに暮らしていた。富士山麓の樹海とは、私たちにとって
も、ミステリアスな場所である。その地下に深優姫も知らない研究室があり、そこで
母親は何者かに殺されたという設定は、私たちの想像力を刺激する。
深優姫が山小屋を尋ねたのは十年ぶりであった。彼女は、寒気を感じて抱きしめた毛
布から、微かに懐かしい父親の臭いを感じた。しかし、その樹海のただ中に、核融合
エンジンを搭載したシャトルが、向原の仕組んだウィルスソフトによって、核廃棄物
を満載したまま墜落する可能性があった。そうなれば日本ばかりではなく全世界が核
汚染され破滅を招くだろう。
 山小屋は、深優姫の過去と未来が換喩的に交差する神聖な場所である。すなわち、
富士山麓の樹海―地下室のある小屋―突入する核廃棄物を満載したシャトル―この三
つの結合は、父親と娘のただならぬ出来事を連想させる。
 しかし、深優姫とアマネは協力して、核融合エンジンのウィルスソフトに対する、
ワクチンを活性化させて危機を回避できたのであった。ただしそれと引き換えに、父
親の脳波は停止し、そしてまた同時にアマネの脳波も停止することになっていた。最
後を迎えたアマネがいった。
「お前を抱いときゃ良かった。ホント、らしくねーったらねーよな」
 深優姫がエクスタシーに達したのは、まさしくアマネ/父親を失いつつある、その
瞬間であった。

 七つの封印が解かれて、シャトル墜落の危機が回避されてもこの作品は終了しな
い。深優姫は科学者としてアマネの脳細胞を復活させようと企てる。深優姫の体験
は、無軌道MU.KI.DO.Uではなく、父親の軌道に沿っていけば、うまくいっ
たということを示していた。そのように軌道に従ってアマネを治療すれば、アマネの
治療も軌道に乗るだろう。しかし深優姫がアマネを治療する目的は、アマネを復活さ
せて結ばれたいという、一途な願いからであった。ところが、アマネは父親の代理
物、すなわちアマネ/父親であるので、実際に、性関係を結ぶとすれば、社会の道徳
から、すなわち軌道からそれてしまうだろう。結局、この作品では結論は出ない。深
優姫とアマネ/父親との関係は迂回路を取り、復活途上にあるというところで終了す
る。

 「KI.DO.U」を一貫して支配するのは、ひたすら父親に愛されたいという女
性独特のエロチシズムである。それでは、父親との関係と核燃料廃棄物とは、どのよ
うな関係があるのだろうか。深優姫と父親の関係の危機は、彼女にとって、まさに核
燃料廃棄物による放射能汚染の危機と同レベルにあった。私は、杉本蓮が本能的に愛
する故郷の汚染の危機を、父親との関係に重ね合わせて感じ取ったのだと思う。
 その人が誠実な生き方をすれば、未来の予知の確率が高まるのではあるまいか。現
在の生き方が誠実であればあるほど、現在を正確に反映し、その延長である未来を予
知するアレンジメントを出現させるだろうからである。未来は、ちょうど、現在の瞬
間の生き方を微分した線のように現れる。すぐれたSFは、その執筆された時点の作
者の誠実な生き方が反映されるので、それが象徴的な形をとって未来を指し示すので
ある。
 「KI.DO.U」の底に流れる純粋な魂の息吹に触れると、女性の読者であれ
ば、幻の父親との苦行的対話から生まれるエクスタシーを、共感を持って堪能するこ
とができるだろう。男性であれば、ヴェールに隠蔽された女性の世界の気配を感じ
て、ただため息をつくばかりである。そこに神秘を感ずる人もいるし、あるいはいら
だつ人もいるだろう。私は前者の立場から、「KI.DO.U」は限りなく女性の心
の秘密に接近した傑作だと思う。最後に、この作品はもっと直接的な描写があったそ
うであるが、裏本も読んでみたいものである。   (藤元登四郎)

【付記】第6回日本SF評論賞により「SF評論賞チーム」の一員となった藤元登四郎氏の2回目の登場です。藤元氏の受賞作は、現在発売中の〈SFマガジン〉7月号に掲載されています。是非、お読み下さい。

やっと印刷所に入稿することができました。

今回、編集長である私がとんでもない繁忙期にあたってしまい、なかなか編集作業に手を着けられなかったのです。それが原因で遅れたわけではないんですけどね。

そのかわり、助かったこともありました。

なんと今回、京都精華大学マンガ学部マンガプロデュース学科の生徒たちが、プログレスレポートの編集を手伝ってくれました。

私が同校でDTPを教えている授業で、「一度くらい印刷されて見知らぬ人に読まれるものを作る経験をしてもらいたい」という考えから、授業の課題として今号の一部をデザインしてもらったのでした。

そんなわけで16ページあるプログレスレポート4号のうち11ページは、学生がほとんどの作業をやって私が仕上げにちょっと手を入れることで完成しています。いや、忙しかったんでホントに助かったなあ。

というわけで、プログレスレポート4号は、来週末発送準備、再来週のうちに発送される予定で進行中。発送前後にはpdf版もダウンロードできるようになりますので、もう少々お待ちください。

 むかしどこかで読んで、部分的に覚えているのだが、誰が書いたどんな作品なのか分からない…そんな経験は誰にでもあるだろう。

桃色の川は流れる (1981年) (角川文庫) [文庫] / 矢野 徹 (著); 角川書店 (刊)

 実は「静岡SF」というお題が実行委から示された時に、真っ先に思いついたのがこの作品であった。作者の名前も分からない。とにかく覚えていたのは、子供のころ、学研の「学習と科学」に収録されていたジュヴナイルSFで、タイトルが「トムトムとトモコ空港」ということだけ。友好的な宇宙人が駿河湾のヘドロをさらってきれいにし、海上空港を作ってくれる。ということは記憶に残っていた。しかし何しろ見たのは「学習と科学」である。現在入手できる可能性はほとんどないだろう。

 とりあえずだめもとでyahooにて「トムトムとトモコ空港」と検索してみた。なんと複数のサイトがヒット。私が当時見た初出誌もあっさり判明してしまった。ネットの情報力は誠に恐ろしい。

1978年『4年の学習・科学/読み物特集号』

つまり夏休みに読書に関心を持ってもらうべくまとめられた、児童文学の別冊アンソロジーに収録されていたわけだ。ああ…私の年齢がバレてしまった。…それはさておき。

 腰を抜かすほど驚いたのは、肝心の作者があの矢野徹であったということ。そんなビックネームであったとは!もちろん当時は知る由もない。侮りがたし「4年の学習」。そしてさらに検索して分かったのは、現在は残念ながら絶版であるものの、角川文庫から矢野徹の短編集の一冊としてちゃんと刊行されていたということだった。別に幻の作品でもなんでもない。とりあえず取り寄せて読んでみた。

 物語の舞台は公害時代の静岡。病院でひっそりと療養するひとりの目の見えない少女トモコがいた。そこにひょっこりと宇宙人の少年トムトムが訪れる。少年は地球人から見ると醜い姿をしているが極めて友好的。少女の目が見えないことが幸いし、偏見を持たずに少年と友情を結ぶことができた。宇宙人たちは、二人の友情をテコに交渉を進め、地球と友好関係を結ぶことに成功する。人類の悩みの種であった駿河湾のヘドロを取り除き、その泥から海上空港を作ってくれた。その空港は新静岡空港ではなく「トムトムとトモコ空港」と呼ばれるようになった…

 今読むとさすがにめでたしめでたしすぎる。そもそもいまや「友好的宇宙人」という概念自体が成立しないだろう。公害や公共事業に対する考え方も現代とのズレを感じずにはいられない。だがさすがそこは名匠・矢野徹。ひとつひとつのシーンの描写は実に印象的で、静岡県庁に巨大円盤が降下してくるシーンなどは忘れがたいものがある。

 確かにSFは時代とともに腐る。だが、あえて読むとそこには変わらない輝きも確かにある。SFとは何か、と問う時に、これらを見逃すことはできない。世界を違う目で見ようとする態度、それは年齢や時代と関係なく受け継がれていくべきものではなかろうか。本書の系譜上にある若手作家の新作として八杉将司の「光を忘れた星で」を挙げることもできるだろう。

光を忘れた星で (講談社BOX) [単行本(ソフトカバー)] / 八杉 将司, 中山 尚子 (…

光を忘れた星で (講談社BOX) [単行本(ソフトカバー)] / 八杉 将司, 中山 尚子 (著); 講談社 (刊)

 それは決して「盲目」がテーマになっているからということではない。新しい世界に踏み出していく少年少女の畏れのような感覚がしっかりと受け継がれているからだ。それは時代が過ぎても決して消えることはない。私はそう信じている。(高槻 真樹)

部室のドワーフちゃん1 (CR COMICS) [コミック] / 仏さんじょ (著); ジャイ…

部室のドワーフちゃん1 (CR COMICS) [コミック] / 仏さんじょ (著); ジャイブ (刊)

 月刊にせよ週刊にせよ長期間にわたる雑誌連載を主体とした日本のマンガ表現においては、往々にして主人公の影がいつしか薄くなる、という現象が起きる。マンガ連載とは同時に掲載される他作品との仁義なきバトルロワイヤルであり、ごく幸運な少数作品だけが争いに勝ち抜き、長寿連載になる。いや、必ずしも長寿連載が作品にとって幸運とは限らないのもまた常ではあるが。

 何にせよ、読者の耳目を集め続けるためには、次から次へと強烈なキャラクターを登場させ、注意を逸らさないようにしなければならない。もっと別の方法もあったんじゃないかと気付いた時にはもう遅い。キャラクターのパラメーターはハイパーインフレに襲われ、人気キャラ同士の壮絶なしのぎ合いの挙句、気がつけば本来の主人公は蚊帳の外、どこへ行ったかも分からなくなってしまう。マンガの世界では実によくあることである。

 だがしかし。本作品はそうした状況をどこまで意識していたのかよく分からないのだが、実に巧妙な設定でこのジレンマを回避している。そしてそのことが、作者自身もどこまで意識していたのか分からないほどのディープなSF世界へと分け入っていく契機となるのである。

 本書の舞台は静岡のとある高校の手芸部。主人公である少女・空気ひより(これでからき・ひよりと読む)は、もとより存在感が薄く、常にクラスメートから認知してもらえないことに悩んでいた。幼馴染の真緒にさえ、毎年自己紹介されるありさま。そんな性格を何とかしたいと一発奮起、個性的なメンバーぞろいで知られる同校の手芸部に入部する。手芸部とは名ばかりで、その実体はコスプレ部。妖艶な怠け者の部長・優衣以下、暴れん坊な仕切り屋の綾乃、男前美女の桃香、そして寡黙な正体不明の幼女ドワーフちゃんと、それぞれ大変に自己主張が激しい。

 果たしてそんなメンツの中でひよりは忘れられずに自己主張していけるのか。読者は誰しも深刻な不安にとらわれるはずである。何しろ最初から狭い部室の中で存在を忘れられてしまうありさまだ。回を追うに従ってひよりの存在感は過激なまでに薄まっていき、ページの谷間に落ち込むという離れ業までやってのける。先行きは暗い…

 だが、単行本を一冊読み終える頃には、誰しも何かが変だということに気付く。ひよりの影の薄さが非常識なまでに悪化すればするほど、読者にとっての存在感は増していくからだ。第二巻になると、幼馴染のはずの真緒は、ひよりの家にたどり着くことさえできない。

部室のドワーフちゃん(2)(CRコミックス) (CR COMICS) [コミック] / 仏さん…

部室のドワーフちゃん(2)(CRコミックス) (CR COMICS) [コミック] / 仏さんじょ (著); ジャイブ (刊)

実は隣同士であったにもかかわらず、視覚的に隣家が認知できないことが明かされるのだ。大変な苦労をして家に入ってみると、今度はひよりの両親の姿が見えない。目の前にいるにもかかわらず、知覚できないのだという。ここまで来ると、これはもって生まれた性格というよりは、ほとんど超能力に近いものだ。

 思い出す人もいるだろう。たとえば、ドラえもんの「石ころ帽子」、あるいは、クリストファー・プリーストの「魔法」(ハヤカワ文庫FT)。

魔法|クリストファー・プリースト/古沢嘉通|早川書房|送料無料

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 よく考えてみればひよりはプロポーションも豊かだし顔も地味なわけではない。むしろ読者的には目立ちまくっており、タイトルロールのドワーフちゃん以下手芸部の面々の方が脇にやられているほどだ。

 最新の第三巻ではひよりの能力の秘密の一端が明かされる。普段はほとんど視認できないが、なぜかある特定のポーズを取った時だけ、ステルス構造が崩れ、誰の目にも留まるようになる。ここまで来るとギャグとか誇張とかいう領域をはるかに超えている。登場人物の誰もに確認可能な現象としてひよりの不可知能力が認識されるようになり、その現象の法則性を探り出そうとし始めているからだ。

部室のドワーフちゃん③ (CR COMICS) [コミック] / 仏 さんじょ (著); ジャ…

部室のドワーフちゃん③ (CR COMICS) [コミック] / 仏 さんじょ (著); ジャイブ (刊)

 もともとこの作品は高校の部活を舞台とした学園コメディであったはずである。静岡が舞台ということも実は結構重視されていて、これもまた読みどころである。静岡はアニメの放映本数が日本一少ないとも言われる厳しい環境で、主人公たちがエアチェックに七転八倒するエピソードがある。コミケ参加のエピソードでは、さかなセンター前に集合、皆で車に乗って東名高速を東進しながら各地の名物を制覇していく。まずは焼津おさかな工房で朝から船盛り、日本坂PAでは静岡みかんパン、さらにはポーク餅、静岡おでん、揚げチーズケーキ…

 こんなに具体的なのに、こんなに楽しい静岡県ご当地学園コメディなのに、回を追うにつれて加速度的に存在感を増すのはひよりの不可視能力…この作品はいったいどこへ行ってしまうのだろう。どんどん見えなくなっていくのに読者的にはどんどん存在感を高めていく空気ひより。この存在はまさしくSFだ。 (高槻 真樹)