» 2011 » 5月のブログ記事

静岡にはSBSという放送局があります。
そこで放映中の番組「笑顔がいいね!」内において、パンパカパンツというミニアニメが放送されています。
一度聞いたら脳内でぐるぐるリピートしてしまう中毒的な内容をご体験ください。


6月1日より参加費が20,000円に値上がりします。
まだお申し込みでない方はお急ぎください。
5月末日までにお申し込みの方は、お申し込み後10日以内にご入金ください。

『芙蓉峰』(村井弦斎)

 静岡とSFのつながりは、実は昨日今日に始まったことではない。古典SFの世界にも、静岡SFは存在する。それは今から百年以上も前、明治30年(1897年)に発表された村井弦斎『芙蓉峰』である。
 作者は、知っている方には説明の要もない、『食道楽』の著者として知られる人物である。横田順彌氏の『近代日本奇想小説史』にも、長山靖生氏の『日本SF精神史』にも取り上げられている、古典SF史上において非常に重要な作家だ。その全体像については、黒岩比佐子氏の『『食道楽』の人 村井弦斎』に詳しい。
 そんな弦斎の『芙蓉峰』は、富士山に巨大電気燈を設置して、静岡県下はおろか、東京など関東圏全体を照らして不夜城にしよう、という壮大な計画の物語だ。日本一の山・富士山は、静岡県にそびえ立つ(正確には山梨県と半々だが)。そして富士山以外の場面も、ほぼ沼津市と静岡市とで展開される。要するに、舞台が静岡県から出ないと言っても過言ではないのだ。
 では、さっそくストーリーを追ってみることにしよう。そもそもは、沼津にある名家・福田家のひとり娘お秋(美人)が、富士山を眺めるのが好きだったことから始まる。そして富士山を眺めるだけではもったいない、山頂に巨大な電気燈を設置すれば、関東八州を照らして夜の闇をなくすことができる、と考えた。しかしお秋の父は金持ちだったが今はなく、母とふたりきり。その事業を成し遂げられるような男性を夫にしたい、と思っていた。
 お秋の女中経由で、それを聞きつけたのが、花水浮之助という美男子だが遊び人の書生。自分が富士山巨大電気燈を計画しているように装って、美人娘とその財産を我が物にしようと企んだのだ。
 お秋が富士山に下見登山をするというので、これぞ好機と花水浮之助も連れの岩山と共に登る。そしてわざとお秋に聞こえるように、連れに「僕の電気燈計画では……」などと話しかけたのだ。結果、お秋はころりと騙されてしまう。
 岩山は無骨な(かつ女嫌いの)真面目一辺倒の書生で、花水浮之助と同じく法野という代言人(弁護士)のもとに寄宿している。彼は浮之助の本質を見抜いて馬鹿にしつつも、電気燈については良い計画だと考え、浮之助には無理だろうから自分でやろうと考え始める。
 お秋の母も花水浮之助は怪しいと考えていたが、お秋はすっかり信じ込んでいる。しかし、浮之助の前の女が乗り込んでくるなどということも起こる。
 まあ、さすがに浮之助が目論み通りに結婚するのは無理だろう、お秋と岩山が結ばれるんだろうなあ——と思いつつ読んでいると、ところがどっこい、浮之助はまんまと福田家の婿養子に収まってしまうのだ。
 ええっ、そうなの? これは意外——と思いつつ読み進める。お秋は「あなたが事業に成功するまで臥所は共にいたしませんわ」とかなんとか言って、とりあえず彼女は清らかなまま。そういうことですか。
 やがて舞台は沼津から静岡市へと移る。浮之助がそちらに「大日本天光會創立事務所」を設置したのだ。しかしそれは福田家から金を引き出す方便で、浮之助はその金で酒に女にと楽しく暮らしていた。
 そこに新キャラ登場。元武士の娘だが、家が金に困って芸者をしている富士江(美人だが男嫌い)。浮之助が彼女を無理矢理身請けしようとしたところを、助けたのが岩山だった。彼もまた、静岡市に「富士山電燈会社創立事務所」を設置していたのだ。この住所が「番町の一番外れ」という記述があるから、現在の静岡市葵区の、一番町から八番町のどこかということだろう。
 以降、富士江はなにくれとなく岩山の手伝いをしようとする。が、岩山は無骨者なので迷惑顔。富士江が岩山に惚れているのは明々白々だが、当の岩山は全く気づかない始末。
 このキャラを出したということは、岩山は富士江とくっつくのかな……と思いつつ、更に読み進める。
 しかし遂に真相に気づいたお秋が、沼津から静岡へと乗り込む。ひと騒動あって、お秋と浮之助は離婚することになる。岩山は恩人の法野に頼まれ、かつ富士山電燈の真の発案者がお秋であることを知り、お秋の婿になるのだった。
 うむうー、そうなのか。未婚であっても芸者をしている女性よりも、バツイチの名家の女性とくっつけるのですか、弦斎先生。お秋はあくまで自分の理想を現実化してくれる対象として岩山を望んだのであり、それよりも純粋に岩山という男性を慕っている富士江の方がいじらしくて可愛いと思うのですが。
 何はともあれ、十数年後に富士山の頂上に巨大電燈が建設され、物語は幕を下ろす。
 正直に言って、本作のSFポイントは「巨大電気燈」の一点に尽きるし、それが完成するのは物語の最後の最後。だが登場人物同士の会話のやりとりなどがたまらなく可笑しく、わたしは読みながら何度も声を出して笑ってしまった。全体としての面白さは、かなりのものなのである。
 村井弦斎は、早くから電気の重要性に気づいており、後に日立製作所の創業者となる小平浪平に対して、これからは電気の時代になる、とアドバイスしたという。現在の東京を見てみれば、巨大電気燈という形ではないけれども、電気の力によって不夜城と化しているではないか。村井弦斎の先見の明は、かなりのものだったといえよう。大長篇『日の出島』では、太陽光エネルギーによる「太陽燈」まで登場させているほどだ。
 本作は「報知新聞付録」に明治三十年一月から三月まで連載され(その際は「峰」の字が違い『芙蓉峯』)、同年八月に春陽堂から単行本化された。現物を入手しようとするとなかなか難しいが(ネット古書店などを見るとウン万円のお値段が付いている)、幸いなことに国会図書館の近代デジタルライブラリーに入っているおかげで、ご家庭でも簡単に読むことができる。総ルビなので、割合と簡単に読めると思う。面白さは本当に保証付きだし、とにかく静岡SFの古典なので、是非ともご一読いただきたい。(北原尚彦)

【付記】北原尚彦は評論賞チームではないのですが、今回の作品は明治SFのため、日本古典SF研究会会長として特別に参加させて頂きました。

(この原稿は、〈プログレスレポート第3号〉に掲載したものの再録です)  
  

2008年9月30日刊(徳間書店)

【第9回日本SF新人賞受賞作】

  こういうSFが好きだ。私・宮野にとってSFとはこのようなものだ。目次からして、大風呂敷である。「1 あらゆる物語の序章」に始まり「14 あらゆる物語の終章」に至り、そして、「1 〝あらゆる物語の序章〟」で終わる。内容も、目次に恥じない。  「宇宙細胞」は、地球上のあらゆる生物を呑み込んでいく単細胞生物だ。ヒロイン・舞華は、それが南極の氷の中より解き放たれるところから事件にかかわることになる。 

 地球上の最初の生物は「単細胞生物」だった。細胞分裂は、最初の生殖であると同時に、最初の死だった。死と生殖は同じ現象の別名だ。我々はそこから出発した。 出発といっても、そこを離れたわけではない。そこを起点として四方八方へ、いわば球状に、存在のバリエーションを生じさせていったのが生命の歴史だ。その意味では、むしろ、そこへの完全なる回帰こそが我々の真に求めるところかもしれない。

「宇宙細胞」の正体を巡って、ヒロイン・舞華は報道記者・目黒たちと思弁に満ちたやりとりを交わす。それは、刺激的かつスリリングだ。 目黒がきわめてヒロイックに「大事なのは雌だ。女だ」という言葉と「なぜか、満足しているような笑顔」を残してこの世を去った時に、舞華はわめく。

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初出〈2008年増刊モーニング・ツー〉14号 

→ 単行本『聖☆おにいさん』第3巻(講談社モーニングKC 2009年3月23日刊)

 

  「聖☆おにいさん」とは、ブッダとイエス・キリストのことである。超有名人物である2人は、休暇を「アパートをシェアして下界で」(1巻10頁)過ごすことにした。2人が暮らすアパートは、東京都立川市にある。彼らはそこで「普段、半径1㎞以内から でない」(3巻54頁)まったりとした生活を送っている。 

 この2人が連れだって旅行へ出かける。イエスが近所の商店街の福引で温泉旅行を当てたからだ。その道中を描いたのが「その18 いい旅極楽気分」である。2人の行先は静岡県……修善寺温泉である。

 さて、どうして、彼らは立川に住み、そして修善寺に出かけるのか?

 これに関しては、たとえば、次のような記事が参考になる。

 作者の中村光さんは静岡出身。出版元の講談社によると、立川には姉が住んでおり、子どものころから度々訪れて親しみがあったという。「東京といえば立川というイメージがあるそうです」と編集者。昨年は手塚治虫文化賞短編賞を受賞し、一躍注目を浴びた。                          (〈朝日新聞〉2010年10月11日朝刊多摩版)

 静岡出身だから修善寺、立川に姉が住んでいたから立川……思わず納得しそうになるが、事はそう単純ではない。『聖☆おにいさん』を描く時点での作者が、東京で立川以外の場所を知らないわけがないし、静岡で修善寺以外の場所を知らないわけがない。知っている多くの場所の中から「立川」「修善寺」が選び採られたのだ。その理由は何なのか?

 修善寺駅に着いたブッダとイエスは、まず記念撮影を行う。駅前には「伊豆の踊子」にちなんだ「記念撮影用書割」があるのだ。人物の顔の部分がくりぬいてあるアレである(写真参照)。

 「伊豆の踊子」冒頭には、修善寺温泉のことが書かれている。執筆時の伊豆旅行で実際に川端康成が泊まった場所でもある。そのことによって、この地は近代文学の聖地として成立した。

 修善寺が聖地なのは、それだけではない。

 駅から温泉行きのバスに乗った2人はバスガイドの説明を聞く。

 えー この修善寺温泉 伝説では弘法大師が独鈷で岩を砕き そこから湯が湧いたと言われております(同 42頁)

 ブッダの「後輩」の事績に刺激をうけたイエスは、携帯電話のアンテナで地面をつつく。そこからブドウ味のファンタが噴きだす。「ファンタも君の血にカウントされるのかい……?」とあきれるブッダ。

 そう、聖地をつくるということでは、この2人にかなう者はいない。だって2人は世界史上屈指のスーパーアイドルなのだから。

 聖地の成立……ある土地が独自の引力を獲得することについて、この「聖☆おにいさん その18 いい旅極楽気分」の冒頭に次のような言葉がある。

 

 偉大な人物の旅路には くっきりと痕跡が残る 

 それは土地の人々が 大好きなその人が訪れたことを 決して忘れたくないという思いゆえか……

         (『聖☆おにいさん』 第3巻 39頁)

 

 作者・中村光は、「立川」「修善寺」を作品の中に書きとめた。意識するしないにかかわらず、そこは作者・中村光にとって「決して忘れたくない」場所なのだ。そこを忘れることは、自分が自分ではなくなることであるような場所とも言える。

 作品を作り出す時に、自動的に引き寄せられてくるような場所がある。それは実は作者が選んでいるのではない。神の采配の領域である。

 このマンガによって、立川も修善寺も新たな聖地となった。

 行くところがすべて聖地になってしまうブッダとイエスの珍道中は、実はそのまま現実でもある。

 先に引用した朝日新聞多摩版の見出しは「マンガでも聖地に」であった。

 「聖☆おにいさん」の舞台には、立川駅構内や近隣のオニ公園も登場する。――中略―― 立川駅にほど近いオリオン書房ルミネ店には、23区内や横浜からわざわざ舞台になった立川まで買いに来る客もいる。販売担当の池本美和さんは、「物語の舞台に少しでも近い場所で買いたいという心理が働くようです」と推測する。そんなお客を見込んで、池本さんは「おにいさん」のコーナーにPR文を掲げた。「お買い上げは是非〈聖地〉で!」                                     (〈朝日新聞〉2010年10月11日朝刊多摩版)

 そして、私、宮野の家には、修善寺駅につくなり、「あ、あれだっ。写真撮って!」と書割に駆け寄る小学生たち(おこづかいで『聖☆おにいさん』の単行本を買っている)がいたりするのである……。            (宮野由梨香)

 さて本日は、実行委員長にSFセミナーでお見せした本についてご紹介したい(5月5日「静岡SFの奥深さ」参照)。

静岡といえば特産はプラモ。静岡がホビー王国であることは、ご存知のSFファンも多いことだろう。今回静岡でSF大会が開かれる理由のひとつに、この「ホビー王国」ぶりもある。業界を代表する「タミヤ」をはじめ、現在県内になんと八社ものプラモデルメーカーがひしめくというのだから驚かされる。
 だがなぜ静岡で模型が栄えたのか?本書は、静岡の地域出版だけあって、静岡とホビーの関係をコンパクトな分量で教えてくれる。模型業界史や社史ではなく、地域産業史だからこそ見える視点。これが新鮮である。
 まずは冒頭の「ホビーのまち静岡 その五〇年」を見てみよう。静岡はもともと豊富な材木産地を抱え木工産業が盛んだった。駿府の寄木細工など優れた技術を基盤として木工の飛行機模型産業が生まれ、これが戦後にプラスチックに転換され、プラモ産業が成長していく。職人の腕だけで勝負できる木工模型と違って、高価な金型を外注しなければならないプラモデルはリスクが高い。おのずと新作に社運が賭けられることとなる。そんな中で、他社との差別化をはかるべく、プラモの外箱を飾る「ボックスアート」の重要性に注目したタミヤは、やはり先見の明があった。ここに戦後ホビー王国の第一歩がある。なにしろ当時超売れっ子画家であった小松崎茂に社長自ら嘆願の手紙を送り、承諾を得たというのだから熱い。
 本書ではそんなボックスアートに注目し、SFファンにおなじみ小松崎茂をはじめとする「箱絵の巨匠たち」を紹介する章もある。怪獣画で知られる梶田達二も登場する。すでにこの世にない小松崎はやむを得ないが、上田信、大西将美、島村英二など現役のアーチストたちの肉声を直接集めた内容は第一級の資料と言っていいだろう。特に小松崎茂と双璧を成す巨匠・上田毅八郎の九〇歳を超えてなお変わらぬ健在ぶりがすごい。従軍体験をプラモデル画に生かしたという凄みには言葉を失う。戦艦のスケッチをすることがスパイ行為とみなされ、もってのほかだった時代に、「アメリカではなく上官と戦争しながら」ひそかにスケッチを描きためた。ここまで行くと戦艦画もレジスタンスである。時に戦争賛美の産物のように言われるが、平和あってのプラモなのだと痛感する。
 本書は地元出身・在住のライターたちがそれぞれの専門分野から寄稿しているが、唯一の縛りとなるキーワードは「静岡」。ここが通常のホビー本と大きく異なる。特に異色なのが郷土史家大村和男氏による「ホビーの源流」で、戦前から古代までの県内ホビー史をさかのぼり、いわば「ホビーのまち静岡 その五〇年」の前史部分を描き出す。雛道具や寄木細工の伝統はまだ予想の範囲内だが、登呂遺跡からミニチュアの土器や横槌が出土しているとか、安部川上流域の山村では小正月にミニチュアの臼や杵を作って子供に与える習慣があった、とかいう情報には驚くほかない。
 この夏、ドンブラコンに来られる方には必携の一冊と言っていいだろう。だが残念ながら地域刊行物であり、静岡県外で入手することはかなり難しい。大会会場では販売させていただく方向で検討中だが、会場に来られない方も入手方法はないわけではない。こちらのサイトをぜひ参照していただきたい。
http://www.shizuoka-cf.org/kikan/index.html

 本書が静岡県外で売られていないのはまさしく痛恨事である。ぜひSFファンの力で買い支えようではないか。(高槻真樹)

実行委員長は、静岡SF大全を依頼した高槻真樹さんとSFセミナーの合宿で打ち合わせを行いました。
当初はなかなか見つからないと思っていた静岡SFの奥深さについていろいろ聞き、ネタ切れはないと安堵しましたが、逆に大会までに全貌が把握できるのかが心配になってきました。
中でもSFセミナーで高槻さんに見せていただいた、模型好きなら欲しいに違いないけれど、地元でしか売っていない本の奥付住所がグランシップと同じだったことに気がついたときの衝撃は言葉では言い表せません。
実行委員長は評論賞チームとは別の角度からこの謎に迫っていきたいと思います。

(角川文庫)

 静岡の精神病院に、記憶を失い言葉すら発しない一人の女性が運び込まれた。彼女は入水自殺しようとしたところ、たまたま発見され一命をとりとめた。ところが、彼­女が死を選ぶにいたった理由も、そしてなにより彼女の名前も生い立ちも、まったくわからず、かたくなに閉じた彼女の心を外から開くことなど不可能に思えた。彼女­をみることになった精神科医・望月に助力を申し出たのは、彼女と同じ病院に入院し、今は退院した元・患者である砂子健史だった。仕事によって精神を磨耗し、ほと­んど自殺に近い交通事故を起こした砂子は、生と死の狭間をさ迷い歩いていた。出会った彼女は、彼を生へと一押ししてくれたのだ。東京に帰るついでにこの女性のこ­とを調べてくると望月に約束した砂子が見つけたのは、彼女の複雑な生い立ちと、元・アイドル歌手という経歴だった。それに彼女が自殺直前に付き合っていた男・真­木洋一の存在だった。彼女の名前は浅川さゆり。父親を自殺でなくし、今現在、妊娠している。それが誰の子どもなのか、彼女は何も言おうとしない。

 さて、『リング』『らせん』などのホラーで有名な作者・鈴木光司の生まれ故郷である浜松を舞台にした本作は、一読してわかるように典型的なジャンルSFには分類­されない。裏表紙の紹介文は「ヒューマン・ミステリー」とざっくりとまとめている。とはいえ、「ヒューマン・ミステリー」という作品分類も、だいぶ、あいまいで­ある。彼女=浅川さゆりが何を思い、何を抱え、そして死を決意したのかという「謎」を中心に、物語が展開していくことをさして「ミステリー」と呼び、それが密室­や殺人といったいわゆる狭義のミステリーではなく、登場人物たちの感情や利害の対立、心理的葛藤がこの謎を脚色しているということで「ヒューマン」と形容したの­だろう。読む前はピンとこないかもしれないが、読後であれば「ヒューマン・ミステリー」といわれて、なるほどと思う分類である。

 文庫巻末解説は貴志祐介が執筆し、本作を『リング』シリーズに連ねるキーワードとして「遺伝子」をあげている。そうなのだ、本作にはとある遺伝病が物語で重要な­役割を果たし、ミステリーの核に位置している。浅川さゆりは自らの遺伝子、つまりは彼女を運命づけるプログラムと格闘し、葛藤している。人間(ヒューマン)が生­み出す・解決する謎(ミステリー)という程度の意味しかもっていないはずの「ヒューマン・ミステリー」というカテゴリーは、しかし読後あらためて考えてみると、­「人間(ヒューマン)こそが謎(ミステリー)」とも理解できる。わたしたちの細胞ひとつひとつに格納されている膨大な遺伝情報=遺伝子。科学の分野ではずっと、­どの遺伝子がどのような形質を決めるのかをめぐり研究が重ねられてきた。浅川さゆりが直面し、苦しめられる問題も、彼女の遺伝子に刻みこまれたものの結果である­。ただし、人間こそが謎であると考える立場からいえば、遺伝子のメッセージを解読して物語は終わるのではない。むしろ、その意味を読み解けたところから、ふたた­び始まる。最後には、浅川さゆりが死を決意した理由は明らかにされる。いわば人間が生み出した謎には解が与えられる。ただし、人間という謎は解けない。彼女に刻­まれた遺伝子を、科学的に調べることはできるのだろう。発病するのかしないのか、じきに結果は明らかになるのだから。ただ、それでも彼女という人間の謎は残る。­彼女の形質をかたちづくるあらゆるものが記述され、彼女の心理的葛藤の背景までほりおこされたとしても、それでもなお謎は残る。人間・という・謎。

 最後にSFめいたことをつけくわえるならば、こうなるだろう。科学とは記述することであった。しかし、どのように科学の記述を積み重ねても、人間はその記述から­つねに過剰・不足してしまう。この人間をとらえようというある意味で絶望的、またべつの意味では希望的な試みがサイエンス・フィクションではないのか。鈴木光司­『光射す海』は、SFでおなじみの現実ばなれした科学描写こそでてこないが、科学と、そこからこぼれてしまう人間という謎をいっしょに描こうとしている。この精­神は極めてSF的なものなのだ。                                (海老原豊)