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西脇順三郎『近代の寓話』

* * *

四月の末の寓話は線的なものだ

半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜

たおやめの衣のようにさびれていた

考える故に存在はなくなる

人間の存在は死後にあるのだ

人間でなくなる時に最大な存在

に合流するのだ私はいま

あまり多くを語りたくない

ただ罌粟の家の人々と

形而上学的神話をやつている人々と

ワサビののびる落合でお湯に入るだけだ

アンドロメダのことを私はひそかに思う

向うの家ではたおやめが横になり

女同士で碁をうつている

ふところから手を出して考えている

われわれ哲学者はこわれた水車の前で

ツツジとアヤメをもつて記念の

写真をうつして又お湯にはいり

それから河骨のような酒をついで

夜中幾何的な思考にひたつたのだ

ベドウズの自殺論の話をしながら

道玄坂をのぼつた頃の彼のことを考え

たりアインシュタインがアメリカの村を

歩いていることなど思つてねむれない

ひとりでネッコ川のほとりを走る

白い道を朝早くセコの宿へ歩くのだ

一本のスモ﹅の木が白い花をつけて

道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を

みれば深山の桜はもう散つていた

岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花

はむらがつて霞の中にたれていた

私の頭髪はムジナの灰色になつた

忽然としてオフィーリア的思考

野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ

スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯

にぎるこの花束

あのたおやめのためにあの果てしない恋心

のためにパスカルとリルケの女とともに

この水精の呪いのために

* * *

西脇順三郎は、1953年の4月に湯ヶ島温泉に滞在して、『近代の寓話』を書いた。詩中の「ワサビののびる落合でお湯に入るだけだ」というくだりは、彼が逗留した宿・湯ヶ島落合楼のことを指していて、「ひとりでネッコ川のほとりを走る/白い道を朝早くセコの宿へ歩くのだ」というくだりは、猫越川の川辺に沿って世古峡を散策したさいの体験を反映している。とはいえ、猫越川が「ネッコ川」に、世古が「セコの宿」に姿を変える西脇の詩の世界では、伊豆の春の風景もまた、現実の伊豆であらねばならないという重荷から解放されて、「寓話」と呼ぶにふさわしい自由な空気の中にたゆたっている。

西脇は、自身の作風を「超現実主義」の名で呼んだ。だが、この「超現実主義」という言葉で、自動筆記やデペイズマンなどといった芸術制作の方法論を連想するのでは、詩人の言わんとするところを完全に理解したとは言えない。あるいはまた、西脇は、夢や無意識などといった心理学の概念を芸術理論に利用するわけでもない。確かに、彼は、「ふたつの現実の関係が遠く離れれば離れるほど、しかしそれが照応し合えばし合うほど、イメージの力は強くなる」というピエール・ルヴェルディの発言を好んで引用する。しかしながら、予想外の言葉同士を接続して詩的効果を狙うというデペイズマンの手法は、西脇にとって、手段ではあっても目的ではない。西脇が自分の創作姿勢を「超現実主義」と自任するとき、彼が主張しようとしているのは、詩は、一方で現実の世界を越え出るけれども、他方でそれはけして現実の放棄でも逃避でもなく、現実の認識を新しい姿へと変化させて読者に受け容れさせるということだ。

「詩は、現実に立つていなければならぬ。しかしその現実につまらなさを感じることが条件である」。現実はどうしようもなくつまらない。先ず、その点を認めることから詩は始まる。現実の中で、意識は思考の習慣に絡めとられて冬眠している。だから、詩は、意識を目ざめさせるために、言葉の結合が生み出す破壊力を武器にして、習慣に対して宣戦布告する。習慣が、言葉は何かを意味しなければならないと命じるのであれば、詩は、言葉には意味以外のものがあると異議を申し立てるだろう。習慣が、詩は美しくなければならないと命じるのであれば、西脇は、自然を模倣したり人間に快感を与えたりする伝統的な作詩法さえ捨てて、詩の中に現われる「驚き」のみを純粋に表現にもたらそうとするだろう。今ここにあるこの現実を、受け止めるためにこそ否定して、硬直し切った思考を打ち砕く。西脇が目指すものは、サイエンス・フィクションが目指すものに他ならない。だから、いかにして言葉を通して言葉自身を克服するかという西脇の試みは、現代のSFが興味を向ける問題を正確に予告していると同時に、SFの限界というものが奈辺にあるかをしるしづけているように思える。

だが、正直なところ、そんなことはどうでもいい。詩をつかまえて、それを別の言葉に置き換えたり、何か意味を押し付けたりするのは無粋者のしでかす過ちだ。「アンドロメダ」の名をきっかけにして、「たおやめ」という語がいかに肉感的な情緒を帯びることか。「オフィーリア的思考」という言葉の面白みが泉となって、続く詩行で枚挙される花々の名前から、「あのたおやめのために」、「あの果てしない恋心のために」、そして「この水精の呪いのために」と重ねられていく最後の一節までの間に、何と滔々とした流れが生まれていることか。そんな中に差し挟まれている「鉛筆」という語が、読み手にどれほど強烈な物質感を与えることか。そういうことを驚き楽しめるなら、詩の理解にはそれで十分だ。詩は寓話ではあるが、何を意味する寓話でもない。ただ、自らが生まれた時代の言語を借りずにはいられないという意味で、西脇の詩は『近代の寓話』ではある。そして、SFも、その極北において寓話という表現手段を取るのなら、そのときには、評論家などという無粋者はおとなしく引き下がるべきなのだ。

(横道仁志)