» 2011 » 4月のブログ記事

いろいろ忙しくて、blogが滞っています。

4月9日~10日 はるこんにて企画出演と受付を実施。
4月17日 スタッフ会議にネット参加。
4月21日 副実行委員長の櫻井・企画管理担当の有田と静岡。
午前は静岡観光コンベンション協会・静鉄観光サービス株式会社と打合せ
午後はグランシップ設備担当者・ベイプランニング様と機材の打合せ
4月26日 企画受け付け数100本突破。そろそろ閉めますので、主催予定の方はお早めに。

実行委員長のゴールデンウィークの予定は以下のとおりです。

4月29日 始発で東京。ライトノベルフェスティバルにて案内書配布
4月30日 ロケットまつり
5月1日 M3(TRC)とComin1(ビッグサイト)で挨拶回り
5月2日 栃木事務所
5月3日~4日 SFセミナーにて案内書配布と受付
5月4日 目黒にて企画会議
5月5日 都内で企画出演者と打合せ
5月8日 目黒にてスタッフ会議。最終便で大阪

西脇順三郎『近代の寓話』

* * *

四月の末の寓話は線的なものだ

半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜

たおやめの衣のようにさびれていた

考える故に存在はなくなる

人間の存在は死後にあるのだ

人間でなくなる時に最大な存在

に合流するのだ私はいま

あまり多くを語りたくない

ただ罌粟の家の人々と

形而上学的神話をやつている人々と

ワサビののびる落合でお湯に入るだけだ

アンドロメダのことを私はひそかに思う

向うの家ではたおやめが横になり

女同士で碁をうつている

ふところから手を出して考えている

われわれ哲学者はこわれた水車の前で

ツツジとアヤメをもつて記念の

写真をうつして又お湯にはいり

それから河骨のような酒をついで

夜中幾何的な思考にひたつたのだ

ベドウズの自殺論の話をしながら

道玄坂をのぼつた頃の彼のことを考え

たりアインシュタインがアメリカの村を

歩いていることなど思つてねむれない

ひとりでネッコ川のほとりを走る

白い道を朝早くセコの宿へ歩くのだ

一本のスモ﹅の木が白い花をつけて

道ばたに曲つている、ウグイスの鳴く方を

みれば深山の桜はもう散つていた

岩にしがみつく青ざめた菫、シャガの花

はむらがつて霞の中にたれていた

私の頭髪はムジナの灰色になつた

忽然としてオフィーリア的思考

野イチゴ、レンゲ草キンポウゲ野バラ

スミレを摘んだ鉛筆と一緒に手に一杯

にぎるこの花束

あのたおやめのためにあの果てしない恋心

のためにパスカルとリルケの女とともに

この水精の呪いのために

* * *

西脇順三郎は、1953年の4月に湯ヶ島温泉に滞在して、『近代の寓話』を書いた。詩中の「ワサビののびる落合でお湯に入るだけだ」というくだりは、彼が逗留した宿・湯ヶ島落合楼のことを指していて、「ひとりでネッコ川のほとりを走る/白い道を朝早くセコの宿へ歩くのだ」というくだりは、猫越川の川辺に沿って世古峡を散策したさいの体験を反映している。とはいえ、猫越川が「ネッコ川」に、世古が「セコの宿」に姿を変える西脇の詩の世界では、伊豆の春の風景もまた、現実の伊豆であらねばならないという重荷から解放されて、「寓話」と呼ぶにふさわしい自由な空気の中にたゆたっている。

西脇は、自身の作風を「超現実主義」の名で呼んだ。だが、この「超現実主義」という言葉で、自動筆記やデペイズマンなどといった芸術制作の方法論を連想するのでは、詩人の言わんとするところを完全に理解したとは言えない。あるいはまた、西脇は、夢や無意識などといった心理学の概念を芸術理論に利用するわけでもない。確かに、彼は、「ふたつの現実の関係が遠く離れれば離れるほど、しかしそれが照応し合えばし合うほど、イメージの力は強くなる」というピエール・ルヴェルディの発言を好んで引用する。しかしながら、予想外の言葉同士を接続して詩的効果を狙うというデペイズマンの手法は、西脇にとって、手段ではあっても目的ではない。西脇が自分の創作姿勢を「超現実主義」と自任するとき、彼が主張しようとしているのは、詩は、一方で現実の世界を越え出るけれども、他方でそれはけして現実の放棄でも逃避でもなく、現実の認識を新しい姿へと変化させて読者に受け容れさせるということだ。

「詩は、現実に立つていなければならぬ。しかしその現実につまらなさを感じることが条件である」。現実はどうしようもなくつまらない。先ず、その点を認めることから詩は始まる。現実の中で、意識は思考の習慣に絡めとられて冬眠している。だから、詩は、意識を目ざめさせるために、言葉の結合が生み出す破壊力を武器にして、習慣に対して宣戦布告する。習慣が、言葉は何かを意味しなければならないと命じるのであれば、詩は、言葉には意味以外のものがあると異議を申し立てるだろう。習慣が、詩は美しくなければならないと命じるのであれば、西脇は、自然を模倣したり人間に快感を与えたりする伝統的な作詩法さえ捨てて、詩の中に現われる「驚き」のみを純粋に表現にもたらそうとするだろう。今ここにあるこの現実を、受け止めるためにこそ否定して、硬直し切った思考を打ち砕く。西脇が目指すものは、サイエンス・フィクションが目指すものに他ならない。だから、いかにして言葉を通して言葉自身を克服するかという西脇の試みは、現代のSFが興味を向ける問題を正確に予告していると同時に、SFの限界というものが奈辺にあるかをしるしづけているように思える。

だが、正直なところ、そんなことはどうでもいい。詩をつかまえて、それを別の言葉に置き換えたり、何か意味を押し付けたりするのは無粋者のしでかす過ちだ。「アンドロメダ」の名をきっかけにして、「たおやめ」という語がいかに肉感的な情緒を帯びることか。「オフィーリア的思考」という言葉の面白みが泉となって、続く詩行で枚挙される花々の名前から、「あのたおやめのために」、「あの果てしない恋心のために」、そして「この水精の呪いのために」と重ねられていく最後の一節までの間に、何と滔々とした流れが生まれていることか。そんな中に差し挟まれている「鉛筆」という語が、読み手にどれほど強烈な物質感を与えることか。そういうことを驚き楽しめるなら、詩の理解にはそれで十分だ。詩は寓話ではあるが、何を意味する寓話でもない。ただ、自らが生まれた時代の言語を借りずにはいられないという意味で、西脇の詩は『近代の寓話』ではある。そして、SFも、その極北において寓話という表現手段を取るのなら、そのときには、評論家などという無粋者はおとなしく引き下がるべきなのだ。

(横道仁志)

初出〈花とゆめ〉1984年8号 → 短編集『甲子園の空に笑え!』(花とゆめCOMICS 1985・1・25)に収録 → 短編集『空の食欲魔人』(白泉社文庫 1994・9・21)に収録 http://www.u-office.co.jp/~irana/sakuhin/3gatu/hyoshi.jpg

もう4月なのに、どうして「3月革命」?……いぶかしむ声が聞こえてきそうであるが、私・宮野は、もちろん、この作品のことを4月になってから思い出したわけではない。

「静岡SF」と聞いたとたんに、この作品の「熱海に行きたいわ あたし」というヒロインのセリフが頭に浮かんだし、「クの日」に扱おうとして、3月にも読み返した。しかし、内気で気弱な宮野にはこれをSFと主張する勇気がなかった。

そして4月になり、桜の花が咲き始めた。

そうしたら、どうしても書きたくなってしまった。

桜の花は、どうしてこんなにも死と永遠を想起させるのだろう?

見上げる者の魂をはるかな高みに飛ばし、人生を彼岸から見下ろすような視点を一瞬獲得させる。こんな花は他にはない。

「早紀子ちゃん うめら」

「ちがう」

「…ももら」

「ちがうっつってんだろ! ありゃおめー桜だ」

咲いたとたんに散ることを予感させるような花。それは、我々もまた限りある存在であることを、意識下において感得させるのかもしれない。

2歳違いの姉と弟。

弟は知っている それが桜であることを。

だからこそ 何度も問う。

そんなことを いったい何度くりかえしたのか。

日本に「9月始業」が根付かないのは、桜の花があるからだ……。そんな説を耳にしたことがある。そうかもしれない。桜が咲くのは、進級・進学・人事異動の時季である。「価値の転換に意味をもたらし選択を必然づけようとする一瞬のあの酩酊」には、桜の花が必要なのだ。

「あ 早紀子ちゃん うめらー」

「…浩生」

「あ ちがった ももらー」

「…おめーなー わざとゆってんじゃねーか?」

もちろん、わざとである。

桜が咲くと、浩生は早紀子に語りかけずにはいられない。

ボクハ アノヒノコトヲ オボエテイル…

そう言う代わりに浩生は「桃だ」「梅だ」と桜を指して言うのだ。

そして、その桜の木の下で日常が反転する。

「この桜の木だった

ここに僕は立っていた

早紀子ちゃんが向こうからやってきた」

自らのビジョンを「…無論 目の錯覚」とした早紀子は浩生の発言を笑い飛ばす

浩生は去り 7年間帰って来ない。

「適齢期」となった早紀子は婚約する。

さて 新婚旅行の行先は?

「ヨーロッパとアメリカ どっちがいい?」

「熱海に行きたいわ あたし」

ヨーロッパやアメリカは 日常と地続きの土地である

「熱海」こそが、日常を反転させる土地の名だ。

配偶者を選ぶのは生物一生の大事である。

ホモ・サピエンスの♀においても、それは同じ。

その判断は、彼岸からやってくる。

40億年の歴史の蓄積が判断させると言い換えてもいい。

桜の木の下に立つ浩生を見て、早紀子が得たビジョンはそういうことだ。

一瞬に全部の時間を見てしまう。あるいは、永遠を。

そうなったら……、もう選択の余地はない。

だから「3月革命」は次の言葉をもって閉じられる。

「桜よ 桜 花吹雪

……そして 熱海に行くのよ あたしたち」

さて、読んだことのない人には全く内容のわからない書き方になってしまったけれども、そもそも作品の「ストーリー」を紹介することには、本来、何の意味もない。この作品の場合は特に。

宮野にとって、この作品はSFである。

どこがどうSFなのか言語化できなくて苦しんでいたら、翻訳家の増田まもる先生が次のようなメッセージを下さった。

「大多数の少女漫画と川原泉の漫画のちがいを指摘するとすれば、作品の底の抜け方にあるのではないかと考えています。上方落語にもみられるような、非日常へすぽんと抜け落ちていく感覚に近いように思います。また、日常の底を抜く力こそ、SFの本質ではないかと考えていますので、彼女の作品は立派なSFだと思います。」

これ以上の言葉を用意することは、宮野にはできそうにない。

そう言えば、増田まもる先生の翻訳された『千年紀の民』(J・G・バラード)は、「ささやかな革命が起こっていた」という言葉でもって始められていた。

(宮野由梨香)

プログレスレポート3号を入稿しました。

プログレスレポート3号表紙

今号は、まず表紙がすがやみつるさんの描き下ろしという豪華仕様。

そして内容も、辻真先さんのコメントにはじまって星雲賞参考候補作リスト、合宿と宿泊のご案内など、SF大会らしい内容が盛りだくさんですよ。

企画紹介では、大ホールでの併催イベント『ホビーロボット・コロシアム』を紹介しています。

お楽しみに!

 評論賞チーム新メンバーの関竜司さんをご紹介します。             関さんは私・高槻と同じでどちらかというとSFジャンル外、アニメ評論からこの世界に入ってこられました。

 現在は大学の研究課程に在籍しておられ、専門の芸術学を駆使した緻密な分析で高い評価を受けました。                             

 SFが私や関さんのようなジャンル外の視点に寛容になったのはとてもありがたいことです。せっかく評価していただいた期待にこたえられるようがんばらなくてはいけません。                                                

 どうぞよろしくお願いします。

 藤元さんとまったく違う繊細にして情熱的な人柄は、奥深く秘めた力を見せてくれそうです。                                        (高槻真樹)

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