» 2011 » 3月 » 29のブログ記事

 プログレスレポートを読んでおられる方には既出となるが、こちらでも読めるようにしておきたい。後の日に閲覧するにはこのほうが便利がいいだろう。本日は幸い「ク」の日である。

八月の博物館 [文庫] / 瀬名 秀明 (著); 新潮社 (刊)八月の博物館 [文庫] / 瀬名 秀明 (著); 新潮社 (刊)

●静岡SFといったら
 とうぜん『八月の博物館』ですよ。
 まあ、作中に一度も静岡という言葉は出てこないけどね!
(ブログ「瀬名NEWS」8月18日)

 と、瀬名秀明は自身のブログに記している。そう、静岡という言葉は一度も出てこない。であるにもかかわらず、本書は静岡SFである。なぜなのか。それを知ることは、本書の執筆意図を知ることにもつながる。
 「八月の博物館」の後、瀬名は明らかに作風を大きく変えた。しかし私たちは、十分意図を汲み取り切れないまま今なお本書をもてあましてはいないだろうか。理系作家がちょっとした気まぐれから手がけたファンタジー。そんな風に考えてはいまいか。発表から十年が過ぎて、見通せる部分も増えたはずだ。今こそ、もう一度読み返してみたい。

 時は十九世紀、エジプト・ナイル。フランス人考古学者マリエットが勇ましく活躍し、奪われかけた出土品を取り戻すシーンから物語は始まる。あたかもよくできた歴史小説の一頁のように。

 ところがここで物語は唐突に中断し、現代の東京で新作に思い悩む作家・瀬名秀明らしき「私」の独白が始まってしまう。「現代文学を知らない理科系ベストセラー作家の喜劇」という、当時の瀬名が巻き込まれた実際の論争がそのままストーリーに取り込まれており、一瞬自分が小説を読んでいるのかエッセイを読んでいるのか分からなくなる。
 だがこれは思いつきの楽屋落ちではない。執筆当時の現実とまったく地続きな「標高ゼロ」の地点からスタートして、物語はゆっくりと離陸していく。現実とほぼ同等な世界から、より抽象度の高い虚構へ。だからこそ第1章では、上野や国立科学博物館など東京の地名が遠慮なく登場する。だが作者の小学生時代の記憶をもとに書かれる2章以降には、具体的な地名が登場してはならない。もし本来の静岡の地名が登場すれば、それはただの「エッセイ」となってしまうからだ。
 もちろん具体的な地名を出しつつなおかつ虚構である小説もあり得る。しかし瀬名がこの後仕掛ける多層的な虚構は、はるかに複雑なものだ。この多層構造を維持するためには、固有名詞はすべて剥ぎ取られる必要があった。しかしそれでいて、その描写は、限りなく実際の瀬名の体験に近いものでなくてはならない。
 確かに固有名詞は徹底的に排除されているが、手がかりはすべて消されているわけでもない。注意深く読んでいくと、興味深い記述が何箇所か見つかる。

 「私はのろのろと起き上がり、空の青さが濃くなりつつある夕方の道を帰った。一年生のときから何百回、何千回と往復した一本道だった。ガソリンスタンドの前を過ぎ、シャッターの閉まったみかん工場の横を抜け、いつも時間が固まっているような電器屋と雑貨屋を横目で見て、何年も変わらずに竹竿を干してあるトタン屋根の古い家を眺め、田圃の畦を流れる水の音を聞きながら、私は家に帰った」(新潮文庫版73ページ)

 確かに固有名詞はない。だが、いかにも静岡らしい「みかん工場」という言葉がまだここに残されている。本書の表現は、実際の体験をどれほど反映しているのだろう。瀬名に直接聞いてみた。

「『八月の博物館』の舞台は、私が子ども時代を過ごした静岡市瀬名(いまは静岡市葵区瀬名)の教職員住宅とその周辺が舞台です。主人公が通っていたのは西奈小学校」

 これは明かしても問題ないだろう。瀬名は2000年に母校を訪れ、その様子はNHK番組「課外授業 ようこそ先輩」の1本として放映されたからだ。内容は「瀬名秀明 奇石博物館」(KTC中央出版)でも読むことができる。番組からは、本書で主人公の学校に存在する「二宮金次郎像」が今も残されていることが分かる。
 瀬名から聞いた教職員住宅と西奈小学校を結ぶ道をGoogle mapで検索してみた。驚くべきことに、本当にまっすぐな一本道だった。航空写真からうかがえる町の景観は、瀬名の記述とほとんど変わっていない。その距離1・3キロ。大人の足ならば15分ほどでたどり着くが、小学生では20分以上かかったかもしれない。みかん工場は建て替えられたものの今もある。西奈小の校庭に隣接する「バックハウスコモト瀬名工場」というのがそれだ。近くには「片井電気店」の名が確認できる。間違いなくこの物語は、静岡市瀬名を舞台とする静岡SFだ。たとえそこからすべての固有名詞が奪われていたとしても。

 瀬名秀明の本名は鈴木秀明という。「せな」という独特の音を持つ姓が不思議で、アイルトン・セナのファンだと誤解した編集者もいたそうだ。同郷の出身で先にデビューしていた鈴木光司との差別化をはかるために、編集者の提案でPNが決められた。つまり瀬名の本意ではなかったわけだが、結果として自身の故郷への関心を高めるきっかけになったかもしれない。

 本書は、瀬名らしき「私」の現在、小学生時代の思い出、未来から来た博物館、19世紀のエジプト・考古学者マリオットの物語といくつもの階層から成り、主人公がそれらの世界をつなげて巡っていくことで進行していく。
 もちろんこうしたメタフィクションはこれまでにもたくさん書かれている。その多くは虚構と現実の融合を目的とした演出であった。読者の住む現実空間を作者の創作空間に引き入れてしまうことで、究極のリアリティが達成される。筒井康隆やボルヘス、コルタサルなどこのスタイルの名手は多い。

 だが、ここで瀬名が試みたことは少し違う。瀬名は本書で自然科学的な方法のみを用いて「人間はなぜ物語に惹かれるのか」を検証した。現象の法則を見つけ出すためには、固有名詞を極力省いていかなくてはならない。瀬名秀明の物語をAの物語に抽象化した時見えてくる法則とは何か?
 これは非常に面白いパラドックスだが、実際の体験を忠実に再現しつつ、そこから固有名詞などの具体的要素を排除していくと、物語はどんどん抽象化し、ファンタジーの手触りを帯び始める。確かに自分自身が体験したものであるにもかかわらず。そこに未来の世界から来た不思議な博物館があったとしても何の問題もないほどに。
 抽象化された骨組みの物語では、現実と虚構の区別をつけることができない。物語から固有名詞を排除していくと、リアルなのに幻想的な雰囲気が生まれる。
 その世界は日常的な描写とつなぐこともできるし、より幻想的な世界とも地続きだ。科学的思考を突き詰めていくとファンタジーが現れた。瀬名自身がもっとも驚いたことだろう。実は文理が統合された先にはファンタジーがあるのではないか?いや、より論理的な幻想という意味でそこにあるのはSFと呼ぶべきか。

 ここから瀬名は、ノンフィクションとフィクションを往復しながら、ロボット学、境界知と、さらに未知の物語を探す旅へと乗り出していく。その旅はいまなお途上だ。SFファンの中には、瀬名の意図が理解できず、創作姿勢に不信感を抱く向きも多いだろう。だが瀬名がこれまでにかちえた成果は、作品を発表順に読んでいけば、おぼろげながら把握することが可能だ。よりはっきりとした言葉として像を結ぶためにはさらにひと押しが必要だが、ゴールは決してはるかかなたではない。近く発表されるという新作を楽しみに待ちたい。(高槻 真樹)