» 2011 » 3月 » 9のブログ記事

   3月9日…「ク」の日である。
 2月は放っておいてゴメンね、「ク」さん。
 あと「おか」さんもゴメン。「静岡(しずおか)」の「静(しず)」は「1・三・月・ナ・ク・コ」でフォローしたけど、「おか」は放っておかれたままだった。
   だから、今日は、この人だぁ!

丘浅次郎……名前が「おか」で、静岡生まれ。
   ここでとりあげるにふさわしい人物であろう。
   主著とされる『進化論講話』は、明治・大正期日本のベストセラーである。
     『進化論講話』(開成館)1904年 → 『増補版 進化論講話』(開成館)1914年 → 『丘浅次郎著作集Ⅴ 進化論講話』(有精堂)1969年 →『進化論講話(上)(下)』(講談社学術文庫)1976年
本文はここでも読めます! http://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/shiryou1/shinnkaronn2.html                            (引用は『丘浅次郎著作集Ⅴ 進化論講話』によった)

『進化論講話』は、日本人に進化論の正確な知識を普及させた名著として知られるが、ただの科学解説書に留まらない。
『明治・大正・昭和の名著 総解説』(自由国民社)にも3頁を費やして解説されているが、そこで、この本は「科学の面白さをたんのうさせるとともに、人類の運命を生物学的に論じた特異な思想書」と紹介されている。
 まさにその通りなのである。
全20章からなる『進化論講話』は、第19章の題を「自然における人類の位置」という。「人とは何物であるか」について論じるにあたって、彼はまず、次のように書いている。

 人とは何物であるかといふ問題を研究するには、自身が人であることは、一切忘れて、恰も他の世界から此地球に探検旅行に来た如き心持ちになり、他の動物と同様に人間の習性を観察し、他の動物と同様に人間の標本を採集して帰つた積りで研究せねばならぬ。(339頁)

 おお、この発想はSF! 
しかも、どうやらこの人にとって、科学とはそういう意味ではすべて「SF」であるらしい。
 彼は明瞭であるものに信を置かない。明瞭すぎる説明に対しては「『講釈師見て来た様な虚言をつき』といふ川柳などを思ひ出して、かえって全体を疑ふに至り易い。」(269頁)などと言う。
 丘浅次郎を「日本近代の啓蒙思想家」と評するのは、正しくもあり、間違いでもある。
 彼の科学に対する考え方は、次のような箇所によく示されている。

 知識の光を以て照せば、何事でも解らぬものはないなどと、大声に演説すれば、その時だけは説く者も何となく偸快な感じが起つて、意気が大に高じるが、実際を顧みると、我々の知識は中々左様なものではなく、わずかに闇夜に持つて歩く提灯位なもので、ただ大怪我なしに前へ進み得られるだけに、足元を照すに過ぎない。実験・観察と思考力とを合せ用いるのは、この提灯の光力をしだいに増加せしめる方法である。今日我々の為し得る範囲内では、この以上のことは出来ぬのであるから、不十分な点を忍んで、科学に満足するより外に致し方はない。(374頁)

 こういう謙虚な視点を持っていた人物だからこそ、1912年という早い時期に「人類の征服に対する自然の復讐」(〈中央公論〉1月)なる、環境問題を論じた画期的な論考を発表できたのであろう。また1913年の「触らぬ神の祟り」(〈中央公論〉1月)では、自然や神をシステムとして把握する思想が示されている。彼はきわめて論理的な語り口で「人類は衰退に向かっていて、いずれ滅亡する」という内容の文章を発表し続けた。当時としては非常に画期的なことであった。
 科学思想史家、村上陽一郎も、丘浅次郎を「進化論における進化という概念を、価値的な『進歩』と置き換えなかった稀有の人」とし、彼の著作を「今日でさえ耳を傾くに足るものを備えた、当時としては数少ないものの一つ」(『日本人と近代科学』新曜社、165頁・167頁)と高く評価している。
 また、丘浅次郎の文体についても、鶴見俊輔が次のような高い評価を下している。

 『進化論講話』は、ヨーロッパの翻訳語とは違う、考える散文として、すごい文章だ。(「鶴見俊輔さんと語る」〈朝日新聞〉2007年1月30日朝刊13頁)

 意外というか、むしろ当然なのかもしれないが、尾崎一雄も『あの日、この日』の中で、若き日における丘浅次郎の書物への傾倒について述べている。そういえば心境小説「虫のいろいろ」で示されるような神の概念は、丘浅次郎と非常に似通ったところがある。
 丘浅次郎は、SF的発想の土壌を育てた。
  宮澤賢治が学生時代に丘浅次郎の著作を読んでいたことは、宮澤賢治記念館に展示されている年譜にも記されている。もちろん、宮澤賢治は日本SFの重要な始祖のひとりである。
   気候改変を扱った作品『グスコ―ブドリの伝記』には、クーボー大博士という科学者が登場する。この「クーボー」とは丘の逆の「窪」なのではないかという説を、かつて宮野は唱えたことがある(本名名義)。宮澤賢治はこのような形で丘浅次郎にオマージュを捧げたのだ。
 そして、SF作家、光瀬龍は丘浅次郎の書物の熱心な読者であった。彼は、かつて丘浅次郎が長らく教鞭をとっていた大学で生物学を学んだ。http://blog.tokon10.net/?eid=1059004そして、丘浅次郎の息子を指導教官として卒業論文を書いた。『ロン先生の虫眼鏡』に登場する「O教授」とは、実は「おか教授」なのである。

   さて、1961年生まれのSF評論家、宮野由梨香も十代で丘浅次郎を愛読した。SF的に非常に面白かったからである。 例えば、ジガバチの漢字表記は「似我蜂」であることなども丘浅次郎の書物で知った。

   「我に似よ」と言い聞かせて、この蜂は拉致してきた青虫を養い育てる。生みの親より育ての親…その恩に感じて、モンシロチョウの子たる青虫もジガバチの姿になる。蜂が青虫を入れた穴から若い蜂が出てくれば、そう考えるのが当然だ。

     丘浅次郎は、こういった「観察に基づく推理」には敬意を払う。その一方で、若い娘を自殺に追い込む「丙午」に関しては、舌鋒鋭く攻撃する。ほとんどの記事がくすんで見える古雑誌の中で、丘浅次郎の文章だけが光をあてたように「読める」のだった。

    上智大学の外国語学部が2001年2月実施の入試で丘浅次郎の「境界なき差別」を問題文とした出題をした。

    今後、さらに読み継がれていって欲しいものだと思っている。

                            (宮野由梨香)

【付記】丘浅次郎は、関東大震災の折、「地震は天罰だ」といった発言に対して強く反論している。数年間、一般の雑誌に書くことを控えていた彼が、どうしてこの時期に再び書き始めたのか? それについて、考えたことを「スペキュラティブ・ジャパン」に書いてみた。http://speculativejapan.net/?p=182  読んで戴けたら幸いである。(2011年3月19日)