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ジャズ大名 [DVD] / 唐十郎, 古谷一行, 財津一郎, 本田博太郎 (出演); 岡本喜八…

 ジャズ大名 [DVD] / 唐十郎, 古谷一行, 財津一郎, 本田博太郎 (出演); 岡本喜八 (監督)

 名監督、岡本喜八監督の最後から五番目の作品にして、あの筒井康隆が原作の一品。世間的には岡本監督の代表作として名前が挙がるのは『日本の一番長い日』や『肉弾』、『江分利満氏の優雅な生活』そして『独立愚連隊』であろう。とはいえ、僕の中で本作は、それらと匹敵するどころか、遥かに愛すべき作品という位置づけになっている。
 岡本監督の最高傑作は、個人的には、和風ミュージカルというスタイルを確立し、和風と洋風を音楽と映像の次元で衝突させ、字幕や音楽、編集やセットなど、「映画」であることで充分に遊びながらも、難解ではなく軽やかに喜劇を描いた『ああ爆弾』であると思っている。緊張感のある構図や編集と、その「映画」を暴露するような崩しのバランスが非常に上手いのだ。その作品のクライマックスで、選挙のシーンがある。ジャズ風の音楽にあわせ、乱闘が起こる。非常に高揚感のあるクライマックスであり、政治と暴力と音楽が、映画の音楽や編集のリズムと同調して、見事な快楽を生み出している。『ジャズ大名』は『ああ爆弾』と、能の舞台に見立てる点や、字幕での遊びなど、いくつかの点で共通点を持っている。そしてそのクライマックスである「ジャズ演奏」のシーンは、『ああ爆弾』と好対照を示しているのだ。具体的に言うならば、「政治」と「暴力」がないのだ。その差異の中に、岡本喜八と筒井康隆の思想が見事に現れており、『ジャズ大名』は見事な傑作となっている。その思想とはいかなるものなのか論じる前に、基本的な情報を確認しておきたい。
 岡本喜八監督は『ブルー・クリスマス』を除いて、ほとんどSF映画というものを撮っていない。しかし、筒井の『馬の首風雲録』が喜八監督にオマージュを捧げていたり、『新世紀エヴァンゲリオン』の「BLOOD TYPE BLUE」という設定に『ブルー・クリスマス』が影響を与えていたり、SFには何かと影響を与えている。(庵野監督の場合は、構図や編集のリズムの切れ味まで受け継いでいる)
 この『ジャズ大名』は、岡本監督と筒井康隆が対談を行ったことでも話題になった。しかし、何故筒井康隆と岡本喜八なのか。逆に言えば、何故筒井康隆は岡本喜八監督に深いリスペクトを示すのか。それは「戦争の描き方」に由来するであろう。岡本喜八監督の『独立愚連隊』が、戦争という重苦しい題材を「軽く」描く作品であったことと、筒井が「戦争」という重いテーマを扱いながらも常に「軽い」ことを美徳とされた作家であったことを重ねて見るべきであろう。『馬の首風雲録』という戦争SF作品が岡本作品を参照しているのも故のないことではないのである。
  筒井康隆が映画に大きな影響を受けて作品を作るようになったという経緯は多くの箇所で語られている。『不良少年の映画史』から特徴的な箇所を抜き出してみよう。

 戦争で大阪市内の繁華街はほとんど空襲による爆撃のため焼け野原になっていて、四ツ橋近辺もその例外ではなかった。ところが、その四ツ橋の中心部、橋のすぐ傍にある電気科学館だけはなぜか焼け残り、戦後も雑草の生えた焼け跡の中にその細長い姿でひょろりと立っていた。(中略)戦後しばらくの間ここでは客寄せのためか、プラネタリウムと同時に戦前・戦中の古い外国映画を再上映していた。(『不良少年の映画史』)

   そのような環境の中で、筒井は、チャップリンの『殺人狂時代』や『独裁者』を見て、「文明の爛熟を皮肉った映画」(『笑いの世界』)として衝撃を受けると同時に、もう一人の重要な人物、マルクス兄弟の影響を受けるのだ。

 私がなぜ、笑いの小説を書き始めたか。(中略)初期にそういうもの(引用者註、ドタバタ、スラップスティック)を書き始めたので、笑いから出発したと言えると思います。なんで笑いだったのかと考えてみますと、やはり喜劇映画が好きだったからでしょう。(中略)そして中学生の時、マルクス兄弟の映画をはじめて観たんですが、これにはびっくり仰天しました。つまりそれまでの喜劇映画は、なんとなく笑いが低劣で物足りなかったわけなんですけれども、彼らの笑いはシュールなんですね。シュールレアリズムという言葉はまだ知りませんでしたが、これはちょっとほかの喜劇映画とは違うなと思った。(中略)大学へ入ってから彼らはヨーロッパのシュールレアリストたちに高く評価されている、ということを知りました。(中略)たまたま大学の美学部におりましたので、それからシュールレアリズムの勉強をいろいろしました。そして、小説を書きはじめました。喜劇映画のスラップスティックの部分を文章にして、シュールなものにしたかったから、どうしても内容はSF的なものになります。SFというジャンルが日本にもできまして、私はその第一世代として登場したんです。(『笑いの力』)

 チャップリンの「笑い」が「戦争」や「文明」を風刺するものだとしたら、マルクス兄弟は単に馬鹿馬鹿しい。チャップリンは、『独裁者』の有名な演説シーンのように、本当に重要な政治的メッセージを発するときは「真面目」になる。言ってしまえば、笑いが政治的目的に奉仕するものとなってしまっているのだ。それに対し、マルクス兄弟は、笑いの目的を持っていない。笑いが手段ではなく目的として自立しているのだ。
 70年代に書かれたエッセイ「笑いの理由」で、筒井は自身への評価に憤激し、「風刺」と「ドタバタ」と二つを分ける考えを示している。「喜劇映画でいえばチャップリンの方が、ロイドやキートン、さらによりシュール・リアリスティックなマルクス兄弟よりも世間的には遥かに高い評価を得ている」とし、社会への有用性へと笑いを還元することこそが笑いの価値であるという意見に筒井は異議を申し立てる。
 後に、この笑いの二種類は「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」として理論化(?)される。笑いとは「生理的には自我の崩壊だけど。簡単に二元論にして、『楽器か武器か』という議論もできる。笑いによって人を楽しませるのか、社会風刺や文明批評や世相への継承なのか」(「笑いの世界」)。だが端的に言って、この分割は、論理的にも筒井自身の創作の履歴から見ても、すぐに崩壊するものである。なぜなら、「楽器としての笑い」はそれ自体が「武器としての笑い」への「批判=武器」であるから、純粋に「楽器」としての性質のみに純化するには、何がしかの決定的な飛躍が必要である。
 実作において純粋なる「楽器としての笑い」だけを創作することが筒井が可能だったかと言えば、おそらくそうではないだろう。「公共伏魔殿」や「堕地獄仏法」「農協月へ行く」に、NHK、創価学会、農協に対する揶揄の意図が“ない“と見ることは難しい。筒井の作品の中で最も音楽に近いであろう「バブリング創世記」ですら、キリスト教や聖書に対する「攻撃」の側面がある。
  であるならば「楽器としての笑い」は理想としての「笑い」であり、実際には筒井は、戦争というモチーフを何度も繰り返し描き、「戦争」という暴力自体を「武器としての笑い」で茶化し続け、そしてその武器としての笑いを「笑う」ことで「楽器としての笑い」へと浄化させようとしていたというのが適切であろう。そして、作品全体が「武器としての笑い」の側面を持っているとしても、瞬間的には「楽器としての笑い」が実現したと考えるべきである。この二つは対立しつつ、位相が違うのだ。
 戊辰戦争の最中にジャズを延々と続けると言う本作は、「戦争」から「武器としての笑い」へ、そして「楽器としての笑い」へと次々と浄化のステップを踏んでいくという作品である。
 江戸時代末期、奴隷解放により逃げてきた黒人たちが駿河の国に流れ着き、お殿様と交流する。そのうちお殿様はジャズにはまっていき、そのジャズ熱は城中に吹き荒れる。その間、世間では戊辰戦争が起こっている。舞台の城は難所にあるために、敵対するそれぞれの勢力が通路に使っていく(ちなみに、新潟にあるはずの親不知子不知が何故か本作の舞台に設定されている)。内政的には「ええじゃないか」が起こっており、外交的にはどちらの味方につくのか迫られ、「内憂外患」のお殿様。お殿様は散々悩んだ挙句、地下室に篭もってジャズに狂う。
   原作では舞台が九州であるが、舞台が駿河の国に移すことで、明治維新前後の政治と戦の移動を強調する意図があったと言われている。とはいえ、「駿河の国」らしさがあるかと言えば、特に強調されているわけではない。本作の半分近くは城の中であり、その城はセットであることを露骨に主張しており、窓の外の照明の色だけで「夕焼け」や「朝焼け」を表現する。外界が「偽者」であることを露骨に示すのだ。
  この物語が語られる表現の軽妙さこそ本作の見所であり、岡本監督の「冴え」や「切れ」の凄まじさが生かされるのもその「表現」こそである。まず最初に噴き出すのは、黒人の台詞がなぜか東北弁で吹き替えされていることだろう。黒人と東北はなんの関係もないはずなのに、「田舎っぽい」だけで妙な吹き替えをされてしまう。「ずさんな吹き替え」の持っている悪意とギャグ。ここで、観客は露骨に映画における「吹き替え」(映像と音の食い違い)を味わう。さらに、日本に渡る船の中のシーンなどひどい。露骨に部屋を揺らしているだけで「船の中」を「演出しています」ということを露呈させている。映画というのが、そういう装置であるということ、そして「そう見えればそれでいい」ということが無造作に提出される。このようなことを、「映像」と「音」の乖離を主題化したゴダールのような政治的に難渋な意味の方向ではなく、あくまで、軽妙に、笑えるように、「遊び」として行っているという点が重要である。
    その他、映画は「映画」特有の表現を用いて好き勝手をし続ける。十字架の墓標が立っている象徴的で悲劇的なように見えた映像は、周りに「東西南北」と文字が出て単なる方位を示す記号に貶められる。城を通路にするために畳や表具を片づけるシーンには道路工事の効果音がつけられていたりする。
  渡部直己は、筒井作品の価値を、「言葉」が意味や作者の意思から離脱して自由を手に入れているという部分に見出したが(『HELLO GOOD-BYE 筒井康隆』)、『ジャズ大名』は映画という形式が、物語に寄与することだけを目指さずに自由に遊んでいる。 これは実は、重要な点である。
筒井作品の持っている「表現」自体が自律して暴走する快楽を踏襲して他ジャンルで実現させるのは相当に難しいことである。筒井康隆が原作の映画には傑作や良作が多くあるが、大林監督の『時をかける少女』でさえこのような「表現」自体が暴走する側面は捨象されていた。(とはいえ、あの作品では尾道や少女自体の魅力という素材が暴走している点が素晴らしさに繋がっている)
 今敏監督の『パプリカ』は、アニメという手法の中で「表現の暴走」を実現させようとしていた作品であったが、アニメの特性であろうか、あるいは今敏の特性であろうか、暴走というよりは「計算」の印象の方を強く感じてしまうものであった。
    本作の場合、そのような「計算」ではない部分に魅力があったりする。例えば、ラスト近くに地下室で踊り狂う人々。彼らは、内容的には、明治維新の前と後で違う曲で踊っているはずなのだ。
だが、明治維新前の曲が終わると、踊っている人々は、ストップモーションで動きを止められる。そして沈黙の中に、官軍が「トンヤレ節」で行進していく。しばしの沈黙の後、二曲目が演奏される。すると、先ほどのストップモーションが解かれ、そのまま踊り出すのだ。映画内現実においては違う曲であるにも関わらず、踊っている人々の動きが音と合うことが、映像と音の乖離を露骨に示す。しかし、同じリズムで踊っていれば、違う曲でも別に映像には合うのだ。どの道、撮影の際には、一シーン一シーン細切れに撮って踊っているわけで、本当に音楽にノって踊っているわけではないのだ。このシーンが秀逸なのは、そのような映画の嘘を露骨に見せ付けることのみを目的とした演出ではなく、単に二種類の踊りを大勢に踊り分けさせるのが面倒くさいし予算もかかるという事情を垣間見せながら、そのような「詐術」によって「エコノミー(経済)」の節約を見せる点である。観客の心理的経済と、その現場の物質的経済が両方とも節約される「技法」の力がここに見せ付けられる。
    本作の後半部で延々と続くジャズ演奏の中には色々なものが混ざってくることになる。例えば「ええじゃないか」である。不満の発露であり革命と結びついた、攻撃や政治の意味を持つ運動は、ジャズ空間に巻き込まれると、単なる音楽と踊りと化し、「武器」抜きのエネルギーとなるのだ。 さらに、このセッションには武士も紛れ込む。斬りあいをしているうちに地下に落っこちてしまった武士の刀を、娘が手で打ち据えて武器を奪う。そしてその後はセッションの一員に巻き込まれてしまう。
 ジャズのセッションの中に巻き込まれるのは、「ええじゃないか」という内乱のエネルギーや、武士同士の戦争のエネルギーだけではない。洗濯などの労働も、桶や仕事道具がセッションの楽器として使われることによって巻き込まれる。葬式に来た坊主の集団も巻き込まれ、木魚などが叩かれる。維新後に官軍が演奏する「トンヤレ節」が巻き込まれ、エレキギターやピアノ演奏、タモリが引いてくるラーメン屋台のチャルメラなどが合体し、時空も敵味方も生死も労働も遊びも混濁したエネルギーのカオスが出現する。
 それはエネルギーのカオスから敵対性と武器を剥ぎ取った、純粋なる「音楽」の世界である。戦争が、「武器としての笑い」を経由し、「楽器としての笑い」へと昇華=浄化されたエネルギーがここには存在する。そしてこのエネルギーが、「音」がある「映画」であるということで、異例の表現力を持って我々に迫るのだ。
 筒井康隆は、革命も戦争の一形態だと考えている(「メディアと感情移入」)。戦争を終らせようとすること自体も戦いであるし、戦いを終らせようとすることも戦いである。歴史はそのような戦いの連続である。筒井の目指す地点は、そのような「戦い」に対して「武器としての笑い」をぶつけ、昇華させ、その昇華の後に「楽器としての笑い」の中で「昇天」(坂口安吾)が起こるポイントなのではないか。それは、もう何かに対する否定性ではない、一切の肯定となるような地点である。
  この映画のラストには、「その後」がない。後始末や、政治的帰結は描かれない。なぜなら、「後」などないからだ。その地点が全てなのだ。このセッションは、永遠でもないし、その「後」もない。それそのものが、単にそれそのものである。そしてそのことが、素晴らしいのだ。

 (藤田直哉)