» 2011 » 1月 » 17のブログ記事

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「誘惑として、」監督:与那覇正之 出演:飴屋法水、井上弘久 24分
「他界」監督:高野貴子 出演:渡辺敬彦、吉森展土、荒木春香 20分
「ハシッシ・ギャング」監督:小沢和史 出演:松浦祐也、土肥ぐにゃり、金崎敬江 24分

 小川国夫をご存知だろうか。2008年に死去するまで終生静岡に住み続け、静岡の風土とキリスト教世界、私小説的な内面を描き続けた。一見、SFからは縁遠い純文学作家に見える。私も今回の「静岡SF」発掘作業の中で初めて存在を知った。
 昨年、小川国夫の作品を原作とした三本の作品で構成されるオムニバス映画「デルタ」が公開された。小川の作品が映画化されるのはこれが初めてのことである。三本とも小川国夫の作品世界を極めて忠実に再現しようとしている。ところが、三本すべてがCGや特撮を駆使した幻想映画となり、その手触りはSFにも極めて近しいものとなった。

 公式HP http://www.delta-movie.com/

 「誘惑として、」は、長編「マグレブ、誘惑として」(講談社)の一章と短編「駅の明り」(「跳躍台」文藝春秋刊収録)を合わせたものだが、作家と読者が喫茶店でしゃべっているだけなのに不気味なイメージが増幅していく。緑のコケの上を這い回るカニなど、回想シーンのジャングルが魔術的で美しい。「他界」はごくありふれた光景に違和感がじわじわとたまっていき、最後に付け加えられたCGシーンで炸裂する。「ハシッシ・ギャング」に至っては、原作(「ハシッシ・ギャング」文藝春秋刊)は、幻聴を追いかける薬仲間の男二人がぼそぼそとしゃべっているだけだが、映画版は全編特撮を駆使しトリップ映像の嵐となっている。
 これはどういうことか。「静岡SF大全」というせっかくの機会である。映画の原作となった三本の短編と長編の一部に目を通し、映画版との表現の違いを比較してみた。
 まず気付いたのは、小川の文体の極端さである。ストーリーはいずれもひどくとりとめのないものだ。もっともシンプルな作品である「他界」を例にとろう。炭焼きの老人が行方不明になり、老人と顔見知りだった作家は、親戚らとともにあてもなく山の中を捜し歩く。要約すれば本当にただそれだけの話になってしまう。だが実際の原作を読むと、書き手の聴覚や触覚が過剰に増幅され、異様な雰囲気に満ちている。地の文を少し引用してみる。

 瀬の音がしてきて、気持を引きこんだ。ほの暗い、しかし透明な気分がよみがえってきた。三年前には自分はいつもこんな気分でいた。
(「他界」小川国夫『黙っているお袋』小沢書店刊収録)

 文章の大部分は会話で成り立つが、登場人物の会話はアラン・ロブ=グリエやマグリット・デュラスのようにうつろで、非現実性をかきたてる。

――だれかに連れ出されたんじゃあないか。
――まさか…。何から何まできちんとしてから、ここをスッと出て行ったんだろ。
――なぜだえ。
――わからんな
(同書より)

 このように小川はカギカッコを一切使わない。何冊かのロブ=グリエの翻訳書はよく似た表記をしている。もちろん真相は今となっては分からない。だが、小川がロブ=グリエから何らかのヒントを得た可能性はある。そう考えてみると面白い。少し比較してみよう。

 ワラスはこの夢想に微笑する。彼は道路を横切り、大通りに出る。その建物の正面のドアの前では、青色の仕事着をつけた太った男が、ドアの銅のにぎりを磨いている
(アラン・ロブ=グリエ「消しゴム」中村真一郎訳、河出書房新社刊)

 啖呵を切る木南さんの額はテラテラ光り、両眼は突出し、唇は濡れて真赤でした。私は成り行きに気を奪われることもなく、そんな醜い彼の顔を眺めていました。相手の醜さも木南さん以下ではありませんでした。吠え合っているな、と私は感じただけです。
(「ハシッシ・ギャング」小川国夫、同題短編集収録)

 どちらも登場人物の目に飛びこんだ風景を順番に描写している。そうした即物的な表現方法が非常に醒めた雰囲気をもたらす。翻訳文と比較するのはナンセンスかもしれないが、全体的にもよく似ている。
 ただ、何だかんだいってロブ=グリエの作品ではいろいろなことが起こる。殺人や誘惑や裏切り、幻影。これに対し小川の作品では本当に何も起こらない。薬物中毒者たちが登場するはずの「ハシッシ・ギャング」ですら、トリップシーンはほとんどない。主人公は周囲に関心も愛情も持てず、風景はひたすら流れ去っていく。ここはかつて小川が旅したイタリアやギリシアではない。彼が終生愛した郷里静岡であるはずだ。それでも自分に引き付けた実体を持つものとして感じ取ることはできないということか。疎外感に耐えながら長い旅を終えて帰郷した男が、郷里に対しても異郷のようにしか感じられなくなっていることに気付く。だとしたら、彼の心の置き所はどこにあるのだろうか。おそらく彼はヨーロッパの風土に対して疎外感を感じたのではない。ヨーロッパを旅したことをきっかけに「疎外感」という視点を発見してしまったのだ。だとしたら疎外感に風土は関係ない。どこまで逃げても、たとえ郷里まで逃げ帰ったとしても、終生疎外感は彼を追いかけ続けたことだろう。

 お午過ぎの列車に乗りました。自分は今どこかへ運ばれている。彦根といっても答えにはならない、仮の地名なんだ、自分はこうされるのが運命なんだ、という思いにとらえられました。
(「ハシッシ・ギャング」)

 どこの誰ともつかぬ登場人物たちが、とりとめもない会話を続けている。誰がしゃべったのか分かりにくくするスタイルは、会話から熱を奪い、あらかじめ定められた台詞を読み上げているような印象をもたらす。まるで映画「去年マリエンバートで」であるが、舞台は豪華で無機質な西洋風のホテルではなく静岡の山村である。
 小川の作品の多くは藤枝市とその周辺を舞台にしており、映画も三本とも静岡にロケして撮影されている。静岡をよく知る人ならば「ああ、これは」と思い当たるであろう場所が次々と登場する。「他界」の茶畑や「ハシッシ・ギャング」の大井川鉄道。だがたとえなにひとつ不可思議なことが起こらないとしても、そこはこの世ならざる世界と化している。「ハッシッシ・ギャング」での、家の窓から見える大井川鉄道の蒸気機関車を撮っただけのシーンが麻薬によるトリップシーンのように感じられてしまう不思議。それは、日常の馴染み深い光景が不可解な現象にしか感じ取れない違和感を表明した小川国夫の文学世界を分かりやすく映像で体験させてくれるものであろう。小説を原作に忠実に映画化するにはどうすればよいか。ストーリーを忠実に追えばよいということではない。いわば作品全体に流れる意識の流れをどうすれば映像に移し変えることが出来るか。今回の三本の作品は、いずれも自分なりの方法で答えを出し得たと思う。
 SF的表現を組み立てる手段は、私たちの知る以外にもあるのではないか。SFを成立させるためには超現実的現象すら不要なのではないか。もちろんその問題提起を最初にもたらしたのはニューウェーヴSFであった。
 ならば小川国夫はニューウェーヴSFか。そうかもしれない。だが、私はそう言い切ることにどうしてもためらいを覚える。確かにバラードのように、作品中からまったくファンタジーを排除し、なおかつSFを書いてしまう作家はいる。だがバラードの作品でも殺人や事故や陰謀は欠かせない。私たちSFファンがバラードやロブ=グリエに惹かれるのは、実は彼らがサービス精神旺盛だからなのではないか?小川国夫のように、作品中で本当に何も起こさない作家がいたら、どう扱うべきなのだろう?
 結局SFはエンターテインメントという出自を忘れることはできず、完全にそれを捨てることはできないのかもしれない。それが人情ではある。だがそれでは小川国夫的な表現は私たちの視界からこぼれ落ちてしまう。ここにはSFとは何かを問い直すきっかけが詰まっている。今回の映画版は、そのことを気付かせてくれた。この映画がなかったら、私が小川国夫を読むことははなかっただろう。感謝したい。
 どこか手に余る何かに気付いてしまった。今回はここまでとするが、小川国夫はSFにとって何なのかは今後も問い続ける必要がありそうだ。
 18日21:00から、大阪・シネヌーヴォで本作品の最終上映が行われる。お近くの方はぜひ見ておくべきだとお勧めしておく。東京・静岡・名古屋での上映は既に完了しているが、SFファンのアンテナに引っかからないままなのはあまりにも残念である。

(高槻 真樹)

※チラシの画像および予告編の映像については、デルタ上映委員会の許可をいただきました。禁無断転載。同委員会の仲田さんに感謝します

15日午前中、大阪日本橋にてロボットお茶会にごあいさつ。
その後東京に移動して、青山でしろうさぎ☆さんを月へ送る会。

さまざまな方々から大会への提案や企画のアイディアをいただきました。

16日は静岡へ移動して打ち合わせと現地取材。取材の結果はプログレスレポート2号にて。
前回台風のために見損ねたガンダム像ですが、今回は見ることができました。