» 2011 » 1月 » 3のブログ記事

  明けましておめでとうございます。
 
 今年も「評論賞チーム」をよろしくお願いいたします。

 「第50回 日本SF大会」まで、あと8カ月です。

 これから「静岡SF大全」を第1月曜日第三月曜日にアップして行きます。

 また、ゲストの方にご登場いただくことも考えております。

 ご愛読いただけたら幸いです。 

       

  さて、あなたは昨夜「夢」を見ただろうか?                                                            見たとしたら、それが今年の「初夢」だ。                                                 「初夢」とは、1月2日の夜から1月3日の朝にかけて見る夢を指す。これは江戸時代に築かれた「伝統」である。縁起がよい夢のベスト3である「一富士(いちふじ)、二鷹(にたか)、三茄子(さんなすび)」……これは、徳川家ゆかりの地である駿河国での高いものの順(富士山、愛鷹山、初物のなすの値段)だという説がある。 

            

           静岡SF大全2 「羽衣」(星新一)

                  『星新一 ショートショート1001 ① 1961-1968   

                               本文の引用と頁数も本書に依った。  

                                                           (引用部分は太字になっています。)  

初出〈SFマガジン〉1963年6月号 →ハヤカワSFシリーズ『宇宙のあいさつ』1963年(早川書房)に収録 →世界SF全集28『作品100』1969年(早川書房)→ハヤカワ文庫『宇宙のあいさつ』1973年(早川書房)→→星新一の作品集Ⅱ『悪魔のいる天国 宇宙のあいさつ』1974年(新潮社)→ 新潮文庫『宇宙のあいさつ』1977年(新潮社)→『星新一 ショートショート1001 ① 1961-1968』1998年(新潮社)→ 青い鳥文庫『おーい でてこーい ショートショート傑作選』2001年(講談社)→ 星新一ショートショートセレクション⑮『宇宙の男たち』2004年(理論社)) 

 

  夢に見るのにふさわしい土地、静岡。                                

風光明媚、気候温暖、天女もそこに舞い降りる。  

星新一のショートショート「羽衣」の舞台もそこである。       

「風早の、三保の浦わを漕ぐ舟の、浦人さわぐ波路かな…….。

春の風が、あたしの顔をかすめて流れている。わあ。なんという、すばらしい景色。あたしは身にまとった無重力ガウンで、あたたかい空気のなかを思うままに泳ぎまわった。 

  なごやかな霞のひろがる空。山々は萌える緑のにおいを、いっせいに立ちのぼらせている。ひときわ高く、美しいのは、富士山とかいう山だ。いま、その上空でタイムマシンから出てきたばかり。その山肌をなでるように、やさしくはいあがっている雲。さらに北の山々で白く輝いているのは、消えのこっている春の雪。」(669頁)   

星新一の「羽衣」は、「天女」によって語られる。                                        「天女」は未来人であった。彼女は「申し分のない都市計画」の中で「不便さや不快さを感じたことがない」生活を送っている。「ないものはなにひとつない」生活だが、彼女は「なにかが欠けているような気がしてならなかった」と言う。                                           未来人の彼女は「数千年をさかのぼった過去の地球へ」やってくる。そして「絶対に着陸なさらぬよう」という禁忌を破り、脱ぎ捨てた「羽衣」を漁師の青年に奪われることになる。 

天女」は自然美の中に舞い降りる。                                                  漁師の「青年はまぶしそうに」天女を見つめる。

未来人」の彼女にとっては、「みすぼらしいが、たくましく明るい、海のにおいのしみこんだ青年」こそが、まぶしい存在である。「整形医学でどんな美人にもなれる」時代から来た彼女は、自分を「天女ではない」と思っている。だが、「なにかの力が、あたしを誘っていたのかもしれない。」と語り、ヴァーチャルな映像ではなく「過去そのものに触れてみたい」と願う彼女は、果たして本当に「天女ではない」のだろうか? 海に足を浸し、その感触を「未来から帰った子供をあやす母のよう」と語る彼女。

彼女は、多分、スウィフトの『ガリバー旅行記』に登場する「ラピュタの王妃」と同じである。天空の王宮での何不自由ない暮らしから逃げ出し、地上で汚濁にまみれることを繰り返した「ラピュタの王妃」。彼女のせいで「女性というものは、わけのわからない行動をとるものだから」ということになり、ラピュタ島では、すべての女性が軟禁状態に置かれることになるのだが…。 

 風光明媚? いや。富士の上空で遊ぶ天女は、もともとは「火山の女神」だ。古来、噴火を繰り返した富士山が、人々にとって、ただ「美しい」だけのものではなかったことは言うまでもない。

 青年がまぶしそうに見たものは、果たして「整形医学」の成果としての彼女の容貌であったのだろうか?  

「三保の松原、浮島が雲の、愛鷹山や富士の高嶺、かすかになりて、天つみ空の霞にまぎれて、失せにけり。」(673頁) 

 天女はこうして静岡の空に溶け込むように姿を消す。

 正月を飾るものとしてよく演じられる謡曲『羽衣』……明るくあでやかな天女の舞が特徴である。その冒頭と最後の文句をそのまま使って、この作品は仕上げられている。                            

たぶん、土地が謡っているのだ。土地が彼女を呼び、そして見送っている。

科学を近代人の宗教とするならば、SFは近代人にとっての神話である。神話とは、世界の輪郭をはっきりさせることによって、精神の定着をもたらすための物語だ。だから、近代はSFを必要としたし、戦後日本は更に独自のSFを必要とした。SFは「彷徨する精神の定着=魂の救済」のために、切実に必要なものなのだ。

「羽衣」を読むと、第一世代SF作家の創作の欲動の根本を支えたものは何か、その問題意識はどこにあったのかが、わかる気がする。   

不便さや苦痛を感じる前に排除してしまう文明が、真綿で首を絞めるように我々を圧迫し、気がつかぬうちに「生」そのものを奪っていく。その文明が、たとえば「羽衣」という作品内部では「この地球をめちゃくちゃにし」「海のすべてを蒸発させ、除きようのない毒と放射能にみちた、死の世界に変える戦い」をひきおこした。我々はまだ、この文明から抜け出す手立てを見つけていない。

星新一が「羽衣」を発表したのは〈SFマガジン〉1963年6月号である。この「文明」が日本の風景を急激に変化させ始めていた時期である。この年の5月に「日本SF作家クラブ」も発足した。    

夢に見るのにふさわしい土地、静岡。                                                        風光明媚、気候温暖、天女もそこに舞い降りる。                                                   そこに生きる若者には、「天女」をもひきつけてやまない力が宿る。                                     

その地に舞い降りることによって「未来人」が「天女」となったように、「天女」を得ることによって、風景は「自然美」となる。                                   「若者」がその地にあることによって風景は「自然美」として完成し、忘れがたいものとして「天女」の心に定着する。                                                        

土地が天女を呼んだからこそ、天女と漁師は出会う。                                                  漁師の若者は、もちろん、その土地を構成するものである。

そして作品が生まれる。                                                                        風景は、『羽衣』が演じられる舞台の中に結実し、「自然美」として『羽衣』を味わう人の心の中に入り込む。             

だから、こんなふうに読むことも可能である。……彼女の旅行を請け負った「時間旅行会社」は本当に時間旅行をさせるのではない。タイムマシンと呼ばれる乗り物の中で彼女はただ「過去に旅して自分好みの文学作品のヒロインになる夢」を見ているだけである。夢は「見ている間は、それが現実」であるから、作品中の彼女は、自分が謡曲『羽衣』の「天女」になりたいと希望したとは知らない。だが、謡曲『羽衣』は作品の背後に流れ続ける……。いかがだろうか? 

だが、ヴァーチャルであろうがなかろうが、「天女」が「若者」を忘れることはない。二度と出会うことはないにしても、その存在は、自身の生きる姿勢を根本から変えてしまう。それを彼女は予感している。だからこそ彼女は思う。「この青年は、いつまでもおぼえていてくれるかしら」と。

「風光明媚」な土地は、観念の中に存在する。青年が天女の思い出の中に存在するように。だが、生き方を根本的に変えるような体験を「リアル」と言わずして、何がリアルなのか? 

「風光明媚」な土地だけが、「リアル」となり得る。あらゆる土地は「風光明媚」でなくてはならない。                                     我々が生きる世界を「リアルでない」と感じるとしたら、それは、「風光明媚」ではないからだ。                                                                   あるいは「天女」が、「若者」が、そこにいないからだ。

なにかが欠けているような気がしてならなかった 」と彼女は言う。何不自由ない生活に欠けていたもの。それが何だったのかは明らかである。「羽衣」に描かれているのは、それらが失われた世界における、奇跡のような邂逅なのだ。 それは「必然のような奇跡」でもある。

土地は奇跡を胚胎する。人間も、そして、世界も同じく、だ。                           

だから、星新一のショートショート「羽衣」は、人生においてごくたまに出会う奇跡のように、瑞々(みずみず)しい。

(☆本稿執筆にあたりまして、高井信さまから貴重なご指摘・ご意見をいただきました。ありがとうございました☆)                                        

                              (宮野由梨香)   

    

    

    

    

    

       

                                                           

                                              「江戸東京たてもの園」の子宝湯  

銭湯の壁にペンキで描かれるのは「松原に海に富士山」という風景である。湯船でくつろぐ人々が湯けむりのむこうに見るのは、もちろん「ペンキ絵」ではない。)

 

 

 

JR清水駅から見る、2011年1月3日の富士山(三保の松原は「静岡県静岡市清水区三保」にある。)