» 2011 » 1月のブログ記事

大阪にて責任者会議。
その後はDAICON清算事業団の新年会。

企画申込システムβテスト継続中。

有川浩の「シアター2」を読む。
前作に続いてイベント運営者必読書だと思う。

事務処理いろいろ。

ジャズ大名 [DVD] / 唐十郎, 古谷一行, 財津一郎, 本田博太郎 (出演); 岡本喜八…

 ジャズ大名 [DVD] / 唐十郎, 古谷一行, 財津一郎, 本田博太郎 (出演); 岡本喜八 (監督)

 名監督、岡本喜八監督の最後から五番目の作品にして、あの筒井康隆が原作の一品。世間的には岡本監督の代表作として名前が挙がるのは『日本の一番長い日』や『肉弾』、『江分利満氏の優雅な生活』そして『独立愚連隊』であろう。とはいえ、僕の中で本作は、それらと匹敵するどころか、遥かに愛すべき作品という位置づけになっている。
 岡本監督の最高傑作は、個人的には、和風ミュージカルというスタイルを確立し、和風と洋風を音楽と映像の次元で衝突させ、字幕や音楽、編集やセットなど、「映画」であることで充分に遊びながらも、難解ではなく軽やかに喜劇を描いた『ああ爆弾』であると思っている。緊張感のある構図や編集と、その「映画」を暴露するような崩しのバランスが非常に上手いのだ。その作品のクライマックスで、選挙のシーンがある。ジャズ風の音楽にあわせ、乱闘が起こる。非常に高揚感のあるクライマックスであり、政治と暴力と音楽が、映画の音楽や編集のリズムと同調して、見事な快楽を生み出している。『ジャズ大名』は『ああ爆弾』と、能の舞台に見立てる点や、字幕での遊びなど、いくつかの点で共通点を持っている。そしてそのクライマックスである「ジャズ演奏」のシーンは、『ああ爆弾』と好対照を示しているのだ。具体的に言うならば、「政治」と「暴力」がないのだ。その差異の中に、岡本喜八と筒井康隆の思想が見事に現れており、『ジャズ大名』は見事な傑作となっている。その思想とはいかなるものなのか論じる前に、基本的な情報を確認しておきたい。
 岡本喜八監督は『ブルー・クリスマス』を除いて、ほとんどSF映画というものを撮っていない。しかし、筒井の『馬の首風雲録』が喜八監督にオマージュを捧げていたり、『新世紀エヴァンゲリオン』の「BLOOD TYPE BLUE」という設定に『ブルー・クリスマス』が影響を与えていたり、SFには何かと影響を与えている。(庵野監督の場合は、構図や編集のリズムの切れ味まで受け継いでいる)
 この『ジャズ大名』は、岡本監督と筒井康隆が対談を行ったことでも話題になった。しかし、何故筒井康隆と岡本喜八なのか。逆に言えば、何故筒井康隆は岡本喜八監督に深いリスペクトを示すのか。それは「戦争の描き方」に由来するであろう。岡本喜八監督の『独立愚連隊』が、戦争という重苦しい題材を「軽く」描く作品であったことと、筒井が「戦争」という重いテーマを扱いながらも常に「軽い」ことを美徳とされた作家であったことを重ねて見るべきであろう。『馬の首風雲録』という戦争SF作品が岡本作品を参照しているのも故のないことではないのである。
  筒井康隆が映画に大きな影響を受けて作品を作るようになったという経緯は多くの箇所で語られている。『不良少年の映画史』から特徴的な箇所を抜き出してみよう。

 戦争で大阪市内の繁華街はほとんど空襲による爆撃のため焼け野原になっていて、四ツ橋近辺もその例外ではなかった。ところが、その四ツ橋の中心部、橋のすぐ傍にある電気科学館だけはなぜか焼け残り、戦後も雑草の生えた焼け跡の中にその細長い姿でひょろりと立っていた。(中略)戦後しばらくの間ここでは客寄せのためか、プラネタリウムと同時に戦前・戦中の古い外国映画を再上映していた。(『不良少年の映画史』)

   そのような環境の中で、筒井は、チャップリンの『殺人狂時代』や『独裁者』を見て、「文明の爛熟を皮肉った映画」(『笑いの世界』)として衝撃を受けると同時に、もう一人の重要な人物、マルクス兄弟の影響を受けるのだ。

 私がなぜ、笑いの小説を書き始めたか。(中略)初期にそういうもの(引用者註、ドタバタ、スラップスティック)を書き始めたので、笑いから出発したと言えると思います。なんで笑いだったのかと考えてみますと、やはり喜劇映画が好きだったからでしょう。(中略)そして中学生の時、マルクス兄弟の映画をはじめて観たんですが、これにはびっくり仰天しました。つまりそれまでの喜劇映画は、なんとなく笑いが低劣で物足りなかったわけなんですけれども、彼らの笑いはシュールなんですね。シュールレアリズムという言葉はまだ知りませんでしたが、これはちょっとほかの喜劇映画とは違うなと思った。(中略)大学へ入ってから彼らはヨーロッパのシュールレアリストたちに高く評価されている、ということを知りました。(中略)たまたま大学の美学部におりましたので、それからシュールレアリズムの勉強をいろいろしました。そして、小説を書きはじめました。喜劇映画のスラップスティックの部分を文章にして、シュールなものにしたかったから、どうしても内容はSF的なものになります。SFというジャンルが日本にもできまして、私はその第一世代として登場したんです。(『笑いの力』)

 チャップリンの「笑い」が「戦争」や「文明」を風刺するものだとしたら、マルクス兄弟は単に馬鹿馬鹿しい。チャップリンは、『独裁者』の有名な演説シーンのように、本当に重要な政治的メッセージを発するときは「真面目」になる。言ってしまえば、笑いが政治的目的に奉仕するものとなってしまっているのだ。それに対し、マルクス兄弟は、笑いの目的を持っていない。笑いが手段ではなく目的として自立しているのだ。
 70年代に書かれたエッセイ「笑いの理由」で、筒井は自身への評価に憤激し、「風刺」と「ドタバタ」と二つを分ける考えを示している。「喜劇映画でいえばチャップリンの方が、ロイドやキートン、さらによりシュール・リアリスティックなマルクス兄弟よりも世間的には遥かに高い評価を得ている」とし、社会への有用性へと笑いを還元することこそが笑いの価値であるという意見に筒井は異議を申し立てる。
 後に、この笑いの二種類は「武器としての笑い」と「楽器としての笑い」として理論化(?)される。笑いとは「生理的には自我の崩壊だけど。簡単に二元論にして、『楽器か武器か』という議論もできる。笑いによって人を楽しませるのか、社会風刺や文明批評や世相への継承なのか」(「笑いの世界」)。だが端的に言って、この分割は、論理的にも筒井自身の創作の履歴から見ても、すぐに崩壊するものである。なぜなら、「楽器としての笑い」はそれ自体が「武器としての笑い」への「批判=武器」であるから、純粋に「楽器」としての性質のみに純化するには、何がしかの決定的な飛躍が必要である。
 実作において純粋なる「楽器としての笑い」だけを創作することが筒井が可能だったかと言えば、おそらくそうではないだろう。「公共伏魔殿」や「堕地獄仏法」「農協月へ行く」に、NHK、創価学会、農協に対する揶揄の意図が“ない“と見ることは難しい。筒井の作品の中で最も音楽に近いであろう「バブリング創世記」ですら、キリスト教や聖書に対する「攻撃」の側面がある。
  であるならば「楽器としての笑い」は理想としての「笑い」であり、実際には筒井は、戦争というモチーフを何度も繰り返し描き、「戦争」という暴力自体を「武器としての笑い」で茶化し続け、そしてその武器としての笑いを「笑う」ことで「楽器としての笑い」へと浄化させようとしていたというのが適切であろう。そして、作品全体が「武器としての笑い」の側面を持っているとしても、瞬間的には「楽器としての笑い」が実現したと考えるべきである。この二つは対立しつつ、位相が違うのだ。
 戊辰戦争の最中にジャズを延々と続けると言う本作は、「戦争」から「武器としての笑い」へ、そして「楽器としての笑い」へと次々と浄化のステップを踏んでいくという作品である。
 江戸時代末期、奴隷解放により逃げてきた黒人たちが駿河の国に流れ着き、お殿様と交流する。そのうちお殿様はジャズにはまっていき、そのジャズ熱は城中に吹き荒れる。その間、世間では戊辰戦争が起こっている。舞台の城は難所にあるために、敵対するそれぞれの勢力が通路に使っていく(ちなみに、新潟にあるはずの親不知子不知が何故か本作の舞台に設定されている)。内政的には「ええじゃないか」が起こっており、外交的にはどちらの味方につくのか迫られ、「内憂外患」のお殿様。お殿様は散々悩んだ挙句、地下室に篭もってジャズに狂う。
   原作では舞台が九州であるが、舞台が駿河の国に移すことで、明治維新前後の政治と戦の移動を強調する意図があったと言われている。とはいえ、「駿河の国」らしさがあるかと言えば、特に強調されているわけではない。本作の半分近くは城の中であり、その城はセットであることを露骨に主張しており、窓の外の照明の色だけで「夕焼け」や「朝焼け」を表現する。外界が「偽者」であることを露骨に示すのだ。
  この物語が語られる表現の軽妙さこそ本作の見所であり、岡本監督の「冴え」や「切れ」の凄まじさが生かされるのもその「表現」こそである。まず最初に噴き出すのは、黒人の台詞がなぜか東北弁で吹き替えされていることだろう。黒人と東北はなんの関係もないはずなのに、「田舎っぽい」だけで妙な吹き替えをされてしまう。「ずさんな吹き替え」の持っている悪意とギャグ。ここで、観客は露骨に映画における「吹き替え」(映像と音の食い違い)を味わう。さらに、日本に渡る船の中のシーンなどひどい。露骨に部屋を揺らしているだけで「船の中」を「演出しています」ということを露呈させている。映画というのが、そういう装置であるということ、そして「そう見えればそれでいい」ということが無造作に提出される。このようなことを、「映像」と「音」の乖離を主題化したゴダールのような政治的に難渋な意味の方向ではなく、あくまで、軽妙に、笑えるように、「遊び」として行っているという点が重要である。
    その他、映画は「映画」特有の表現を用いて好き勝手をし続ける。十字架の墓標が立っている象徴的で悲劇的なように見えた映像は、周りに「東西南北」と文字が出て単なる方位を示す記号に貶められる。城を通路にするために畳や表具を片づけるシーンには道路工事の効果音がつけられていたりする。
  渡部直己は、筒井作品の価値を、「言葉」が意味や作者の意思から離脱して自由を手に入れているという部分に見出したが(『HELLO GOOD-BYE 筒井康隆』)、『ジャズ大名』は映画という形式が、物語に寄与することだけを目指さずに自由に遊んでいる。 これは実は、重要な点である。
筒井作品の持っている「表現」自体が自律して暴走する快楽を踏襲して他ジャンルで実現させるのは相当に難しいことである。筒井康隆が原作の映画には傑作や良作が多くあるが、大林監督の『時をかける少女』でさえこのような「表現」自体が暴走する側面は捨象されていた。(とはいえ、あの作品では尾道や少女自体の魅力という素材が暴走している点が素晴らしさに繋がっている)
 今敏監督の『パプリカ』は、アニメという手法の中で「表現の暴走」を実現させようとしていた作品であったが、アニメの特性であろうか、あるいは今敏の特性であろうか、暴走というよりは「計算」の印象の方を強く感じてしまうものであった。
    本作の場合、そのような「計算」ではない部分に魅力があったりする。例えば、ラスト近くに地下室で踊り狂う人々。彼らは、内容的には、明治維新の前と後で違う曲で踊っているはずなのだ。
だが、明治維新前の曲が終わると、踊っている人々は、ストップモーションで動きを止められる。そして沈黙の中に、官軍が「トンヤレ節」で行進していく。しばしの沈黙の後、二曲目が演奏される。すると、先ほどのストップモーションが解かれ、そのまま踊り出すのだ。映画内現実においては違う曲であるにも関わらず、踊っている人々の動きが音と合うことが、映像と音の乖離を露骨に示す。しかし、同じリズムで踊っていれば、違う曲でも別に映像には合うのだ。どの道、撮影の際には、一シーン一シーン細切れに撮って踊っているわけで、本当に音楽にノって踊っているわけではないのだ。このシーンが秀逸なのは、そのような映画の嘘を露骨に見せ付けることのみを目的とした演出ではなく、単に二種類の踊りを大勢に踊り分けさせるのが面倒くさいし予算もかかるという事情を垣間見せながら、そのような「詐術」によって「エコノミー(経済)」の節約を見せる点である。観客の心理的経済と、その現場の物質的経済が両方とも節約される「技法」の力がここに見せ付けられる。
    本作の後半部で延々と続くジャズ演奏の中には色々なものが混ざってくることになる。例えば「ええじゃないか」である。不満の発露であり革命と結びついた、攻撃や政治の意味を持つ運動は、ジャズ空間に巻き込まれると、単なる音楽と踊りと化し、「武器」抜きのエネルギーとなるのだ。 さらに、このセッションには武士も紛れ込む。斬りあいをしているうちに地下に落っこちてしまった武士の刀を、娘が手で打ち据えて武器を奪う。そしてその後はセッションの一員に巻き込まれてしまう。
 ジャズのセッションの中に巻き込まれるのは、「ええじゃないか」という内乱のエネルギーや、武士同士の戦争のエネルギーだけではない。洗濯などの労働も、桶や仕事道具がセッションの楽器として使われることによって巻き込まれる。葬式に来た坊主の集団も巻き込まれ、木魚などが叩かれる。維新後に官軍が演奏する「トンヤレ節」が巻き込まれ、エレキギターやピアノ演奏、タモリが引いてくるラーメン屋台のチャルメラなどが合体し、時空も敵味方も生死も労働も遊びも混濁したエネルギーのカオスが出現する。
 それはエネルギーのカオスから敵対性と武器を剥ぎ取った、純粋なる「音楽」の世界である。戦争が、「武器としての笑い」を経由し、「楽器としての笑い」へと昇華=浄化されたエネルギーがここには存在する。そしてこのエネルギーが、「音」がある「映画」であるということで、異例の表現力を持って我々に迫るのだ。
 筒井康隆は、革命も戦争の一形態だと考えている(「メディアと感情移入」)。戦争を終らせようとすること自体も戦いであるし、戦いを終らせようとすることも戦いである。歴史はそのような戦いの連続である。筒井の目指す地点は、そのような「戦い」に対して「武器としての笑い」をぶつけ、昇華させ、その昇華の後に「楽器としての笑い」の中で「昇天」(坂口安吾)が起こるポイントなのではないか。それは、もう何かに対する否定性ではない、一切の肯定となるような地点である。
  この映画のラストには、「その後」がない。後始末や、政治的帰結は描かれない。なぜなら、「後」などないからだ。その地点が全てなのだ。このセッションは、永遠でもないし、その「後」もない。それそのものが、単にそれそのものである。そしてそのことが、素晴らしいのだ。

 (藤田直哉)

 さて、懸命なる読者諸君!いよいよ始まった「静岡SF大全」なのであるが、多くの諸兄は疑問をお持ちのことと思う。昨年の「東京SF大全」では、「一の日会」の故事にちなんで毎月1のつく日に更新が行われた。だが、今回は静岡である。さてどうしたものか?そもそも静岡市内ではSF大会が開かれたことすらなく、過去に一度浜松で開かれたのみである。在住作家もかなり少なく、SFファンの活動も活発ではないのではないか。そう考えて当然である。
 だがしかし。在住作家の一人である黒葉雅人氏は言うのである。
 
 実はかつて密かに静岡SF作家協会を作ろう、と考えたことがあります。僕がSF作家クラブの新人賞をいただいたので、作家協会を作ろうと。でもよく考えたら、いま実際に住んでる方はあと辻真先さんしか思い浮かばなかった。二人しかいないんじゃ協会にはならない。協って言うぐらいだから、作家は三人以上いないと。え、協の字の「カ」三つってサッカのカじゃないんですか?
 その時会合を開く日も考えたんですよ。ええ。どうせなら静岡の字にちなもうと。静岡の「静」の字を分解してみたんですよ。したらどうです、「1」「三」「月」つまり第一・第三月曜日ということですよ。この日に岡山で会合を開けばいい。え、遠い?じゃあ岡崎ぐらいで。静岡じゃない?仕方ないなあ。伊東市に「岡」って番地があるから、そこにしましょうか。え、そういう話じゃない。そうですか。
 でも、「東京SF大全」がちなんだ「一の日会」が「一のつく日」に会合を行っていたのは、「東」の書き始めが「一」「日」だからでしょう? え? 全然違う? ごめんなさい。
 あ、そういえば「静」の字のツクリの「争」が余りましたね。こっちを分解すると「ク・コ・ナ」ですか。クコナって何ですかね。組み替えると「泣く子」…「泣く子と地頭には勝てない」ううむ。これは無視すると「争」のもとかもしれませんね。
 「1・三・月」の次に来るのは「ク」ですから、「クの日」を不定期に用いるというのはどうでしょう? 9日・19日・29日を「クの日」にして、「静岡SF大全」の枠にはいりきれない本格的な論考やゲスト原稿などは、ここで扱うようにすれば。ああ、もちろん、ぜひ書きたい「静岡SF大全」があれば、それもOKです。ああ、毎回でなくていいですよ。「泣く子」は甘やかすと、ろくな人間に育ちませんからね。
 ……それもいいなあ。というわけで、そうなった。「静岡SF大全」は、黒葉氏の構想にちなんで毎月第一・第三月曜日には毎回、そして「9」のつく日には不定期に更新される。
 
後日、電話でのやりとり。
「あの、高槻さん、これ一月一日に僕から聞いたことにしてもらえませんか」
「はあ、いいですけどなんでです?」
「去年のTOKONでもエイプリルフール企画が盛り上がったじゃないですか。僕もそれにちなもうかと」
「あれは四月一日ですよ!」
 というわけで、本項目に登場する黒葉氏はフィクションであるらしい。実在するいかなる黒葉氏とも関係ありません。ということにしておこう。でも、せっかくなので本ブログは毎月第一・第三月曜日と、時々飛び入りで参加があった際には「9」のつく日に更新される、ということにしておこう。

こちら、リアル黒葉氏の著作「宇宙細胞」。未読の方はこれを機会にどうぞ

宇宙細胞 [単行本] / 黒葉 雅人 (著); 徳間書店 (刊) 宇宙細胞 [単行本] / 黒葉 雅人 (著); 徳間書店 (刊)
 
 ……というわけで、
 さっそくですが、明日は19日です。第一回目は藤田直哉さんの静岡SF論でスタートします。ご期待ください。(高槻真樹)

企画申込システムのβテスト開始。

「誘惑として、」監督:与那覇正之 出演:飴屋法水、井上弘久 24分
「他界」監督:高野貴子 出演:渡辺敬彦、吉森展土、荒木春香 20分
「ハシッシ・ギャング」監督:小沢和史 出演:松浦祐也、土肥ぐにゃり、金崎敬江 24分

 小川国夫をご存知だろうか。2008年に死去するまで終生静岡に住み続け、静岡の風土とキリスト教世界、私小説的な内面を描き続けた。一見、SFからは縁遠い純文学作家に見える。私も今回の「静岡SF」発掘作業の中で初めて存在を知った。
 昨年、小川国夫の作品を原作とした三本の作品で構成されるオムニバス映画「デルタ」が公開された。小川の作品が映画化されるのはこれが初めてのことである。三本とも小川国夫の作品世界を極めて忠実に再現しようとしている。ところが、三本すべてがCGや特撮を駆使した幻想映画となり、その手触りはSFにも極めて近しいものとなった。

 公式HP http://www.delta-movie.com/

 「誘惑として、」は、長編「マグレブ、誘惑として」(講談社)の一章と短編「駅の明り」(「跳躍台」文藝春秋刊収録)を合わせたものだが、作家と読者が喫茶店でしゃべっているだけなのに不気味なイメージが増幅していく。緑のコケの上を這い回るカニなど、回想シーンのジャングルが魔術的で美しい。「他界」はごくありふれた光景に違和感がじわじわとたまっていき、最後に付け加えられたCGシーンで炸裂する。「ハシッシ・ギャング」に至っては、原作(「ハシッシ・ギャング」文藝春秋刊)は、幻聴を追いかける薬仲間の男二人がぼそぼそとしゃべっているだけだが、映画版は全編特撮を駆使しトリップ映像の嵐となっている。
 これはどういうことか。「静岡SF大全」というせっかくの機会である。映画の原作となった三本の短編と長編の一部に目を通し、映画版との表現の違いを比較してみた。
 まず気付いたのは、小川の文体の極端さである。ストーリーはいずれもひどくとりとめのないものだ。もっともシンプルな作品である「他界」を例にとろう。炭焼きの老人が行方不明になり、老人と顔見知りだった作家は、親戚らとともにあてもなく山の中を捜し歩く。要約すれば本当にただそれだけの話になってしまう。だが実際の原作を読むと、書き手の聴覚や触覚が過剰に増幅され、異様な雰囲気に満ちている。地の文を少し引用してみる。

 瀬の音がしてきて、気持を引きこんだ。ほの暗い、しかし透明な気分がよみがえってきた。三年前には自分はいつもこんな気分でいた。
(「他界」小川国夫『黙っているお袋』小沢書店刊収録)

 文章の大部分は会話で成り立つが、登場人物の会話はアラン・ロブ=グリエやマグリット・デュラスのようにうつろで、非現実性をかきたてる。

――だれかに連れ出されたんじゃあないか。
――まさか…。何から何まできちんとしてから、ここをスッと出て行ったんだろ。
――なぜだえ。
――わからんな
(同書より)

 このように小川はカギカッコを一切使わない。何冊かのロブ=グリエの翻訳書はよく似た表記をしている。もちろん真相は今となっては分からない。だが、小川がロブ=グリエから何らかのヒントを得た可能性はある。そう考えてみると面白い。少し比較してみよう。

 ワラスはこの夢想に微笑する。彼は道路を横切り、大通りに出る。その建物の正面のドアの前では、青色の仕事着をつけた太った男が、ドアの銅のにぎりを磨いている
(アラン・ロブ=グリエ「消しゴム」中村真一郎訳、河出書房新社刊)

 啖呵を切る木南さんの額はテラテラ光り、両眼は突出し、唇は濡れて真赤でした。私は成り行きに気を奪われることもなく、そんな醜い彼の顔を眺めていました。相手の醜さも木南さん以下ではありませんでした。吠え合っているな、と私は感じただけです。
(「ハシッシ・ギャング」小川国夫、同題短編集収録)

 どちらも登場人物の目に飛びこんだ風景を順番に描写している。そうした即物的な表現方法が非常に醒めた雰囲気をもたらす。翻訳文と比較するのはナンセンスかもしれないが、全体的にもよく似ている。
 ただ、何だかんだいってロブ=グリエの作品ではいろいろなことが起こる。殺人や誘惑や裏切り、幻影。これに対し小川の作品では本当に何も起こらない。薬物中毒者たちが登場するはずの「ハシッシ・ギャング」ですら、トリップシーンはほとんどない。主人公は周囲に関心も愛情も持てず、風景はひたすら流れ去っていく。ここはかつて小川が旅したイタリアやギリシアではない。彼が終生愛した郷里静岡であるはずだ。それでも自分に引き付けた実体を持つものとして感じ取ることはできないということか。疎外感に耐えながら長い旅を終えて帰郷した男が、郷里に対しても異郷のようにしか感じられなくなっていることに気付く。だとしたら、彼の心の置き所はどこにあるのだろうか。おそらく彼はヨーロッパの風土に対して疎外感を感じたのではない。ヨーロッパを旅したことをきっかけに「疎外感」という視点を発見してしまったのだ。だとしたら疎外感に風土は関係ない。どこまで逃げても、たとえ郷里まで逃げ帰ったとしても、終生疎外感は彼を追いかけ続けたことだろう。

 お午過ぎの列車に乗りました。自分は今どこかへ運ばれている。彦根といっても答えにはならない、仮の地名なんだ、自分はこうされるのが運命なんだ、という思いにとらえられました。
(「ハシッシ・ギャング」)

 どこの誰ともつかぬ登場人物たちが、とりとめもない会話を続けている。誰がしゃべったのか分かりにくくするスタイルは、会話から熱を奪い、あらかじめ定められた台詞を読み上げているような印象をもたらす。まるで映画「去年マリエンバートで」であるが、舞台は豪華で無機質な西洋風のホテルではなく静岡の山村である。
 小川の作品の多くは藤枝市とその周辺を舞台にしており、映画も三本とも静岡にロケして撮影されている。静岡をよく知る人ならば「ああ、これは」と思い当たるであろう場所が次々と登場する。「他界」の茶畑や「ハシッシ・ギャング」の大井川鉄道。だがたとえなにひとつ不可思議なことが起こらないとしても、そこはこの世ならざる世界と化している。「ハッシッシ・ギャング」での、家の窓から見える大井川鉄道の蒸気機関車を撮っただけのシーンが麻薬によるトリップシーンのように感じられてしまう不思議。それは、日常の馴染み深い光景が不可解な現象にしか感じ取れない違和感を表明した小川国夫の文学世界を分かりやすく映像で体験させてくれるものであろう。小説を原作に忠実に映画化するにはどうすればよいか。ストーリーを忠実に追えばよいということではない。いわば作品全体に流れる意識の流れをどうすれば映像に移し変えることが出来るか。今回の三本の作品は、いずれも自分なりの方法で答えを出し得たと思う。
 SF的表現を組み立てる手段は、私たちの知る以外にもあるのではないか。SFを成立させるためには超現実的現象すら不要なのではないか。もちろんその問題提起を最初にもたらしたのはニューウェーヴSFであった。
 ならば小川国夫はニューウェーヴSFか。そうかもしれない。だが、私はそう言い切ることにどうしてもためらいを覚える。確かにバラードのように、作品中からまったくファンタジーを排除し、なおかつSFを書いてしまう作家はいる。だがバラードの作品でも殺人や事故や陰謀は欠かせない。私たちSFファンがバラードやロブ=グリエに惹かれるのは、実は彼らがサービス精神旺盛だからなのではないか?小川国夫のように、作品中で本当に何も起こさない作家がいたら、どう扱うべきなのだろう?
 結局SFはエンターテインメントという出自を忘れることはできず、完全にそれを捨てることはできないのかもしれない。それが人情ではある。だがそれでは小川国夫的な表現は私たちの視界からこぼれ落ちてしまう。ここにはSFとは何かを問い直すきっかけが詰まっている。今回の映画版は、そのことを気付かせてくれた。この映画がなかったら、私が小川国夫を読むことははなかっただろう。感謝したい。
 どこか手に余る何かに気付いてしまった。今回はここまでとするが、小川国夫はSFにとって何なのかは今後も問い続ける必要がありそうだ。
 18日21:00から、大阪・シネヌーヴォで本作品の最終上映が行われる。お近くの方はぜひ見ておくべきだとお勧めしておく。東京・静岡・名古屋での上映は既に完了しているが、SFファンのアンテナに引っかからないままなのはあまりにも残念である。

(高槻 真樹)

※チラシの画像および予告編の映像については、デルタ上映委員会の許可をいただきました。禁無断転載。同委員会の仲田さんに感謝します

15日午前中、大阪日本橋にてロボットお茶会にごあいさつ。
その後東京に移動して、青山でしろうさぎ☆さんを月へ送る会。

さまざまな方々から大会への提案や企画のアイディアをいただきました。

16日は静岡へ移動して打ち合わせと現地取材。取材の結果はプログレスレポート2号にて。
前回台風のために見損ねたガンダム像ですが、今回は見ることができました。

公式合宿の候補地の下見会について、1月11日に予定していた締切を延長し1月21日といたします。

1.合宿企画の下見会

開催日程  2011年2月5日(土)15時~6日(日)10時
開催場所  三保園ホテル(現地集合・送迎バス交渉中)
静岡県静岡市清水区三保2108
TEL-054-334-0111
参加費用  9,800円(税&サービス・込)
参加締切  2011年1月21日(金)

タイムテーブル(予定)
○2月5日(土)
午後3時頃 ホテル内の見学会 (施設の見学、担当者との質疑応答、等)
午後6時頃 夕食 (懇親会)
午後8時頃 企画
○2月6日(日)
午前10時頃 チェックアウト
※ まだタイムテーブル詳細は決まっていません。

詳細が決まり次第、告知します。

その他
○見学会当日は土曜日で施設の稼働率が高いためにホテル内の全ての施設の見学は出来ない可能性があります。予めご了承ください。

○申込後のキャンセルは1月31日(月)までにお願いします。
1月31日(月)以降の申込取消はキャンセル料が発生しますので御注意ください。

○男性部屋、女性部屋、の相部屋になります。

参加申込
(1)氏名  (2)性別  (3)年齢  (4)住所  (5)連絡先(6)緊急連絡先

上記(1)~(6)を記入の上で下記メールアドレスまでお申込みください。

sf2011-conpack@sd.dcns.ne.jp

※なお、今回は日本SFファングループ連合会議の親睦会と併催になります。

日本SFファングループ連合会議は、毎年のSF大会に承認を与え、星雲賞を運営しているSFファンの団体です。

大会運営や星雲賞に興味のある方のご参加をお待ちしています。

公的機関向け大会資料と実行委員長プロフィールを作成。